シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

議論と感情

議論することは好きですか?
話し合ってより良い解決を求めることができますか?
その際、感情を抑えることができますか?

私はすべてNoです。

ある本をパラパラとめくっていると、議論と感情は別物であるということが書かれていました。

簡単にまとめると、
◎議論は脳・理論的・理性。
◎感情は心・気持ち・喜怒哀楽。

普通に考えればその通りのことで、よく聞く話。何もむずかしいことはありませんね。でも、目に留まった・心に引っかかったということは、現実の私の言動がこれと矛盾しているからです。

そこで改めて、議論という言葉の意味を調べました。

議論は個々の意見を持ち寄り、そのグループ内でより良い結論を出すことが目的。他の人の意見を尊重し、聞き入れる必要がある。

逆に、討論はあらかじめ賛成派、反対派に分かれて意見を主張し、相手の意見を論破することが目的。自分の主張をいかに説得力あるものにするか、相手の主張をいかに切り返すかを考えて話す。選挙のときにみられる候補者同士の討論会がこれですね。

詳しく知れば知るほど、私は議論も討論も苦手だということがわかりました。

話し合いが苦手な理由のひとつに、「私の意見なんて尊重されない。聞き入れてもらえない。」という思いがあるからです。それなら最初から話さないでいよう…となるのです。

相手が冷静であっても、その場で自分の意見を話さずに終わることがあります(相手が感情的になるならなおさら!)。普段はペラペラしゃべるくせに、いざというときは自分の感情や気持ちに押しつぶされて、思っていることを言語化できなくなるのです。

喰われて泣いて

もとをたどれば、これもやはり父との関係が大きく影響しています。今思えば、父自身も議論と感情がごちゃ混ぜになっていたことがわかります。ごちゃ混ぜになっているというよりは、完全に感情に支配されてものを言うような人。

家庭は小さな社会とはよくいったもので、そこで私が身につけた社会性は、意見もしつけも感情的に。怒りはぶちまけるもの。治まらなければ相手を叩いたり蹴ったり、物を投げたりしてOK。弱肉強食。
末っ子の私は何かあるといつも喰われて泣いてばかりいました。

感情の支配下に置かれたのは父だけでなく、私たち子どもも同じでした。私が父と違う点は、父ほどアクが強くないということですかね~。黙ってしまったり、その場から立ち去ったりして、悪く言えば逃げてしまいます。きょうだいの中でも姉はアクの強さを受け継いで生まれました。

そういうアクの強い人たちに私の意見は押しつぶされてきたことが、その後ずっと、「話したくない」「話せない」「どうせわかってもらえない」につながっていたんですね。

喰われて泣いたときに、誰かが私の気持ちを「本当は〇〇だったんだよね」「〇〇したかったんだよね」と代弁してくれていたら、自分の気持ちを肯定できたり、ドロドロした感情を言語化する能力を習得できたのかもしれませんが、そのようなことは一度もありませんでした。

感情の言語化は理性を養う

自分の子ども達にも感情的に怒ってばかりきました。こういうことに気づき始めたのも最近のことなので、すでの子どもの中には「どうせママに話してもわかってもらえない」と思っていることがわかります。

かわいそうなことをしてきたなと思いますが、私もそのように育てられ、自分の感情も自分の意見もどのように相手に伝えるか、また受け止めるかというすべを知らずに生きてきたので仕方ありません。

仕方ない・・・というのは開き直りではなく、自分を責めることをやめたということで、ここでもまた自己受容です。

本当は〇〇したかったんだよね。
わかってほしかったんだよね。
〇〇と思ったんだよね。
と、あの頃の自分の気持ちを受容していきます。

子どもたちには、こちらが気づいたときや、泣いてうまく言えなさそうなときは「本当は〇〇だったんだね」と気持ちを言語化するように心がけています。

ママがわかってくれたという経験も大切ですが、自分の気持ちを感覚でとらえるのではなく、言葉で知るということは自分自身を客観視するための大きな助けになると思うからです。それは冷静に物事に対処できる理性を養うことに通じると思います。

理性よりも感情のほうが発達しすぎた私がどこまでしてやれるかはわからないですけどね…。
せめてものつぐないです。。:゚(。ノω\。)゚・。・・