シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【自分との距離】それでもいいんだよ

自分探しをする人

自分ってなんでしょうか?
人は自分から離れられませんね。
かといって、ずっと一緒にいるわけでもありません。

自分の体はここにあるのに心は離れている、ということがありますよね。

・自分は自分から離れて、今よりずっと先に進んでいる。
・ずっと過去に立ち止まっている。
・自分以外のものを自分だと思い込んでいる。
・自分以外のもので自分を支えている。
・他人に合わせることばかり考えている。

大人になっても自分探しをしている人はたくさんいます。

「本当の自分ってなんなんだろう?」
「本来の自分でありたい」

こう思う人は、自分を抑圧しないと生きてこれなかったのでは?
ありのままを受け入れてもらえず、認めてもらえず育ってきたのでは?

幼い時に自分の考えや、自分の感じるままを受け入れてもらえなかった人は、自分でも自分の考えや感性を受け入れることができません。
それを肯定されなかったので、肯定してもいい=これが自分だ、ということを学習する機会が少なかったのかもしれません。

自分の考えや感性は、自分を自分たらしめるもの。
なのに形成できなかった。
だけど自分は生きている。
でも中身がない。
だから自分探しをする。

自分探しという自覚がなくても、なんとなく生活全体や人生全体に不全感を覚えるということがあるかもしれません。私はずっとそうでした。

4つのエピソード

ある本にわかりやすいエピソードがありました。
自分との距離のヒントになるかもしれません。

A. 未来に生きていた人
共働きで子どもがいるAさんは、いつも時間に追われていた。何をするにもいつも終わったときのことばかりを考えて生きてきたことに気がついた。自分はそこにいたのに、いつも未来に生きていたと思った。

Aさんは頭を切り替えた。やらなくてはならないこと以外は、予定通りにすすまなくてもOK。自分がしたいことはいつやめてもいいし、やめたくなければ続ければいいこと。それは自分だけの時間。自分が自由に使っていい時間。そのことのために没入してもいい時間。それ以外のことは忘れてしまおうと思いきった。

そう思いきれたのは、すべてが思い通りにいくわけではないというそれまでの経験であった。

B. 自分を反省し続けてきた人
アルコール依存症のBさんは、何度も入院しては断酒に失敗し、家族も財産も失い一人になってしまった。次こそは…今度こそは…、と何度も誓ってきたが果たせなかった。

以前は、自分で酒をやめられると思っていた。しかし、失敗し続けた。失敗は、後悔と反省を引き出し、さらに強い決意表明を引き出す。そしてまた失敗して自分を責め、反省することを繰り返していたが、ついに反省をやめた。

飲んでしまうのは運命の一部だ。その運命には逆らえない。断酒しようとする自分はその運命の前に無力なのだと思った。Bさんは、反省は無駄だと思った。

反省しなくなったのは、尊大になったからでもなく、不遜になったからでもなく、自分に近づいたからである。その後、Bさんは自分で酒をやめるようになった。

C. 自分を抑えている人
お酒を飲んで酔っぱらうことで自分との距離を測ることができる。
酔っ払っている自分と、シラフの自分とどっちが好きか?

①両方好きなら、二つの自分の距離は同じである。両方まとめて自分だと考えることができる、健康な酒のみである。

②酔っ払った自分は嫌いで、シラフの自分の方が好きなら、二つの自分は本当の自分から異なる距離にある。酔っ払ったときにとった自分の言動を、シラフになったときに振り返ると、後悔したり、自分を嫌いになったりする。

こういう人は、二つの自分を持っており、その二つの自分の差が許せない自分との距離である。この二つがかけ離れすぎるとアルコール依存症になりやすいのだが、ここには、正確には三つの自分がいる。

自分を嫌っているもともとの自分。その自分は、シラフの時は酔っ払っている自分を嫌い、酔っ払っているときはシラフの自分を嫌うのである。

D. 子どもと生きてきた人
Dさんは小学5年生の息子がいる母親である。常に息子に翌日の準備をしておくように言い、朝はたたき起こす毎日であった。息子は、返事はするものの準備はいつも当日の朝、出発直前。

ある日、息子と話した。これからは自分で起きること、授業の準備は自分ですること、あなたが遅刻してもお母さんのせいではないこと。

そして翌朝。いつも通り息子はなかなか起きてこない。Dさんは遅刻しまいかイライラし始め、起こしてやらなくてもいいのかと不安になり、起きてこない息子への不満がつのった。

このとき気づいた。これは自分と息子の問題ではなく、自分自身の問題だと。これまで、息子に、朝は自分で起きるように言っておきながら、私が約束を守れないで起こしていた。約束を守っていなかったのは息子ではなく、私だった。

あまりにも息子に近すぎていたことに気づいた。長年続いていた息子の問題ではじめて、自分の中の距離に気がついた。その日は10分遅刻した。しかし、その晩、息子は自分で翌日の準備をした。翌朝もぎりぎりまで寝ていたが準備をしていたので遅刻はしなかった。

それでもいいんだよ

このほかにも、「あの人」ががまんしているのだから自分もがまんしようとか、すごくいい思いをしたときに、ひとりで勝手に申し訳なく思うとかいうのも、本来の自分を生きているとはいいがたいですね。

また、「あの人」がそう考えているなら私もそう考えることにしようというのも同様です。

私は優柔不断ではないのですが、自分が決定した後に不安になることがよくありました。自分で決めることが不安なのは、親の考えを押し付けられたりすることで、自分の考えを肯定されなかったからでした。それは精神的自立をはばみ、依存傾向を強める結果になってしまいました。

私の場合は、父が権威的かつ抑圧的だったので、親が、先生が、上司が、と権威者の意向が気になっていました。これは縦の関係ですね。(いじめにあったり、仲間はずれにされたり、近所づきあいなどでつらい経験をした人は、横の関係で他人の目を気にするようになるかもしれません。)

自分の意見や感性が肯定的に受け止められなかったので、そういう人たちの意見や感覚に照らし合わせて、自分の意見・考えを決めてきました。

いや、決めてきたというか、それが「私の意見だ」と錯覚してきたのです。そのことに気づかないから、あっちにフラフラ~、こっちにフラフラ~。

今は少しずつ、自分が感じること、そこから導き出される自分の考えに「それでもいいんだよ」と許可を出す練習をしています。

そうすることで、自分との距離が少しずつ近づいてきているのがわかります。
私の内に眠り、鈍くなっていた感性が表面化してきたというか。その感性と、今ここで感じている自分の感覚にズレがないというか。

そう感じ始めていたある晩、こんな夢を見ました。
私を非難する父に向って、自分の意見をぶつけていました。こんなことを言ったら、はりたおされるかもしれない。それならそれで歯を食いしばっておこう、とぎゅっと力を入れた瞬間に目を覚ましました。
止まっていた歯車が、少しずつ動き出したのかもしれません。

「それでもいいんだよ」
「それでいいんだよ」

心から自分にそう言える人は、子どもにも他の人にも 優しい気持ちで同じように言える。そんな気がします。

参考文献:『人は変われる[大人のこころ]のターニングポイント』/高橋 和己 著/ちくま文庫