シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

悲しんだら喜べる

悲しみを味わう

以前、「負の感情」というものはない、という記事を書きました。

「負の感情」と聞いて連想するのは、悲しみや怒り、ねたみなどでしょうか。

さて、この「負の感情」という捉え方は、明るく元気で前向きなほうがいいということを暗に示しています。このベースがあると、悩みがあっても、心配していても、「大丈夫」「笑って過ごそう」「元気を出して」と、人にも自分にもエールを送りがちになります。

私は息子の不登校をきっかけに、なぜ子どもの気持ちを抑えつけてしまうような接し方をしてきたのかを自問するようになりました。私も同じように育てられてきたことには気づいていましたが、一番大きな要因は、乳幼児期からいろんな悲しみやみじめさを自分の内に押し込めてきて、未処理の感情がそのまま残っていたことでした。

あるカウンセリングの本に、悲しみやみじめさをたっぷり味わい浸ることがないなら、喜びや楽しみも十分に味わえない、と書いてありました。

そうえいば私は中高生の頃、よく「つまらんな~」と言って過ごしていたことを思い出しました。友だちはいたし、楽しいこともありましたが、ささいなことで笑えず、心の中の不全感が消えませんでした。

それは大人になってからも続いていて、いつもどこか、しらけてる感がありました。学生の頃に比べたら、行動範囲が広がり、自由に使えるお金も増えたので、「つまらんな~」とつぶやくに至ることはほとんどありませんでしたが、ささいなことで大笑いしている人がいると、なんでそんなことで笑えるの?と、不思議に思ったり、うらやましく思ったりしていました。

でも、その疑問は先ほどの一言で解明されました。

涙は悲しみに向き合ったしるし

そのことを知ってから、自分の子どもが悲しそうにしていたら、大丈夫だよとエールを送る前に、その気持ちを受容すべく、できるだけ悲しみに浸らせるように心がけています。

そのままほっといたら、子どもは気持ちを切り替えていくこともあるでしょうが、受容する時間を持ったからこそ流れてくる涙があります。

私はその涙をみてホッとします。なぜなら、それは「ちゃんと、自分の悲しみに向き合えた」というしるしだからです。それができたら、こちらが具体的な言葉でエールを送らなくても、親の受容という愛のエールを受け取っているんだと思います。

先日、息子と娘が外に出て遊んでいました。そして娘が先にうちに入り玄関の鍵を閉めました。後から、入ろうとした息子が鍵のかかったドアをガチャガチャしていたら、娘が台所の勝手口のほうから「おにいちゃーん、こっちだよー、こっちから来てー」と笑って呼んでいました。息子はそこからうちに上がり、今度は娘が外に出て、立場が逆になりました。

娘はインターホンを鳴らしましたが、息子は応答しないし、勝手口から呼ぶ気配もありません。このままだと娘が不安がると思って私が応答し、玄関の鍵を開けてニコニコしている娘を中に入れました。すると、息子が泣きだしました。

私 「なんで泣いてんの?」
息子「ママが玄関のカギを開けたから」
私 「だってあのままだと〇〇ちゃんも不安になるやん?」

この時点で、私はまだふたりが遊んでいるものだと思っていたのですが、どうやら違うらしい。

そして、これまでなら、すぐに息子を怒っていたと思いますが、その時、私はすごく疲れていてソファに横になっており、ひたすら眠りたい一心。泣いてる息子を抱えて連れてきて、一緒にソファに寝転がりました。どうしたの?とか、なんであんなことしたの?とか聞かず、とにかく眠かったので黙っていました。

すると、小さな声で「ぼくも不安だったんだ…」って。

そういうことか。妹をしめだしたのは仕返しだったのか。息子も鍵が開かないドアの外で不安だったのか。息子を責めないでよかった(睡魔のおかげ)。

息子の気持ちをいくつか代弁して、気持ちが落ち着いたら、またふたりで遊び始めました。

受容される喜び

これを書きながら、「多くの罪を赦された者は多くを愛する」という聖書の話を思い出しました(ルカ7章36~50節)

悲しみや絶望と真に向き合い、その感情をたっぷり味わった人は、喜びの尊さを知っているのかもしれません。悲しみを思いきり味わった人は、笑うことや感謝することを惜しまないのかもしれません。

責められるのではなく、愛し受け入れられる経験は、「ありがとう」って言いなさいと教えなくても、自然と感謝と喜びを生み出し、「ごめん」って言いなさいと教えなくても、「あんなことして悪かったな」と素直に過失を認めるようになるのではないでしょうか。「良心の呵責」の「良心」は、受容されたことに比例して育まれるのだと思います。

かくいう私はすぐにあやまることができません。ひとたび事が起これば、戦闘モードになり、あやまってたまるか、あやまったら負け、あやまるのは悔しい、などと、しょうもないプライドが邪魔します。受容されてこなかったゆえ、自分を自分で守るしかなかったからかもしれません。それに、まだいやされていない悲しみがあるんでしょうね。ま、それはそれで、私もひとつずつやっていきます。

私みたいに大人になってから自己受容に時間を費やす必要がないように、今のうちにできる限り、子どもの気持ち(特に悲しい気持ちや不安な気持ち)を受容するようにしようと思います。

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