シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

感情を味わってから相手をゆるす

ゆるしなさいと聖書に書いているけれど

誰かに何かをされたり言われたりして、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていることってありませんか?

もういい大人なんだし、とか、相手をゆるしたらいい、と頭ではわかっているのにゆるせない。あるいは、ゆるしたつもりでも、なにかの折にまたモヤモヤが出てくる。

私もたくさん経験してきました。

聖書を読むと、
「主がゆるしてくださったように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ3:13)
「7度を70倍するまでゆるしなさい」(マタイ18:22)
とあるので、まじめクリスチャンだった私は、「はい、主よ。あの人をゆるします!」と宣言したり、自分に言い聞かせるように祈ってきました。

それにもかかわらず、モヤモヤが消えない。
何度ゆるしを祈っても宣言しても、どうしてゆるせないんだろう?
信仰が足りないのかな?
祈りが足りないのかな?
私はよほど未熟なのかな?
と、ずっと思ってきました。

ゆるしのたとえ話

でも、自己受容を学び始めて、どうしてゆるせないのかがわかってきました。

それは、その出来事に対して反応した自分の感情に、十分寄り添っていなかったからでした。それに、「ゆるさなきゃ」と思っているからこそ、逆に、ゆるせない、そういうことにも気づいてきました。(ルールに反発したくなる心理については 愛してあげなきゃと思うと愛せない も ご一読くださいね)

 前出の聖書個所「7度を70倍するまでゆるしなさい」とは、どういう意味か、イエスは、王から借金をしたしもべのたとえ話をしました。

「しもべたちと清算しようとした王は、多額の借金があるひとりのしもべに、妻子も持ち物も全部売り払って返済しろと命じた。

しかし、すぐに返せないしもべは、時間をくださいと王に懇願した。その姿を見て、王はかわいそうに思って、彼をゆるし、借金を免除してやった。

しかし、そのしもべから借金をしていた彼の仲間が同じように、もう少し時間をくれと言われたら、承知せず、返済するまで牢屋に入れた。

それをきいた王は、『わたしがお前をあわれんだように、お前も仲間をあわれんでやるべきではないか』と怒って、借金を全額返済するまで牢屋の役人に引き渡した。」(マタイ18:23-34)

ゆるす前に感情を味わうこと

王はしもべを「かわいそうに思い」「あわれんだ」のです。ここはとても大切なところです。

誰もそういうふうに自分を思ってくれない場合は、これを自分で味わうことです。自己受容するとは、こういうプロセスを意識的におこなうことなんですね。

あんなことをされて私は悲しかった、つらかった、みじめだった。

こういう感情をゆっくり、たっぷり、じっくり味わうこと。それをすっ飛ばしてゆるそうとするから、ゆるせないんだと気づきました。

このしもべが仲間をゆるせなかったのは、王がかいわそうに思ってくれたことや、あわれんでくれたことを十分思いめぐらさなかったからだと思います。「妻子も持ち物も持っていかれることなく、借金がゼロになった!イェーイ!ラッキ~♪」これで終わっちゃったんでしょうね~。自分の感情に無頓着だったのかもしれません。私の想像ですけどね(笑)

自分自身で、自分の感情にたっぷり寄り添う。

信仰をもっている人であれば、神さまが私の傷ついた気持ちにぴったりと寄り添ってくださっている。そこに自分自身も寄り添う。

すると大きな慰めと愛に包まれていくのを感じます。

ゆるすのはそれからでもいいんじゃないでしょうか。自分をあわれむことができるなら、相手をあわれむこともできて、いつのまにか相手のしたことがどうでもよくなってくるかもしれません。

そうしたら、相手をゆるす祈りはきっと1回ですむと思いませんか? (○'ー'○)ノ

(関連記事 緩めることがゆるすこと も ご一読くださいね)

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。