シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【自己受容】私が自分を愛する根拠

私を愛してくれる存在って?

以前、「子どもを愛するより先に自分を愛する」という内容を書きました。自分を愛するといっても、なかなかすぐには愛せない人もいるかもしれませんね。「こんな自分を愛せない」「そもそも愛するってなに?」「愛ってなに?」という疑問をもつ人もいると思います。(関連記事 子どもより先に自分を愛すること、ヘンですか? も ご一読くださいね)

ところで、あなたは愛されていますか?
家族から?
パートナーから?
友人から?
家族やパートナーに愛されているといっても、いつも100%完全に愛されていると実感してきた人はどれほどいるでしょうか?

どんな時も受け入れてくれて、
どんな時もゆるしてくれて、
どんな時も味方してくれて、
どんな時も守ってくれて、
どんな時も私を優先してくれて、
どんな時も私を信じてくれて、
どんな時も私に期待してくれて、
どんな時も私の失敗を決して責めず、怒らず、
私の能力以前に私の存在そのものをこの上なく喜んでくれて、
私から一切見返りを求めず、
エゴ的でなく、能動的に積極的に完全に私を受容し続けてくれる。
そして、私の身に危険が及んだ時、身代わりになってくれる人。

こんなスーパーヒーローがいたら、どんなに安心していられるでしょうか?失敗を恐れずいろんなことにチャレンジできそうです!人は、失敗したときや落ち込んだときに慰めてくれる味方がいると真に強くなれますよね。 

聖書「愛の章」

聖書の「愛の章」をご存知ですか?第1コリント13章です。そこには、どんなすばらしいことを成し遂げたとしても、愛がなければすべてはむなしく、何の役にも立たないというくだりの後に、愛とはなんぞやという説明がでてきます。

それによると、愛は・・・
1.寛容である
2.親切である
3.人をねたまない
4.自慢しない
5.高慢にならない
6.礼儀に反することをしない
7.自分の利益を求めない
8.怒(いか)らない
9.人のした悪を思わない
10.不正を喜ばない
11.真理を喜ぶ
12.すべてをがまんする
13.すべてを信じる
14.すべてを期待する
15.すべてを耐え忍ぶ
16.決して絶えることがない

男女の愛や、親子の愛とはずいぶんイメージが違いますね~!それに感情や感覚ではなく、行為(動詞)ですよね。実はこの愛、イエス・キリストの性質そのものなんです。

多くのクリスチャンがこの愛に感動しますが、同時に、「イエスがこのように愛してくださったのだから、私もこのように人々を愛さなければならない」と、いつのまにかマイルールが誕生します。しかし、自分のうちに完全な愛がないのはわかっているので、「このように愛せない自分はダメだ。まだまだ信仰が足りない」と嘆く・・・。そういう人が私の周りにはけっこういます。

クリスチャンの多くが、神さまに愛されていると知っていながらセルフイメージが低いままなのはここに原因があると思います。その人のせいというよりは、規範に従うことを良しとする日本の国民性ゆえかもしれませんが…。私もその一人でした。

この1~16の内容は、聖書を読む人々や神さまを信じる人々に、「このようになりなさい」という「基準」を与えているのではなく、「神さまこのようにあなたを愛しているよ」というメッセージなんです。

私はクリスチャンとして、これが自己受容を完全にする要素であり、土台だと考えています。神さまが愛して受容してくださっているように、私も自分を愛し受容するという点で。

(聖書は基準ではなく愛のメッセージ→ 喜ばせなくていい、喜んでいればいい も ご一読くださいね)

自分を愛する根拠

この聖書箇所から、愛は、感情・感覚ではなく、行為であることがわかりました。では、実際、キリストはどのようにして具体的にその愛をあらわしたのでしょうか? あなたの日常の中に神の愛が存在すると言われても、キリストを神だと信じていない人には理解できないし、実感もわかないですよね。

冒頭のスーパーヒーローの話のところで、「私の身に危険が及んだ時、身代わりになってくれる人」と書きましたが、それこそ、キリストが完全な愛をあらわした究極の瞬間です。

十字架の上で
あざける者のために救いを祈り
わたしは神なのだ・救い主なのだと傲慢にならず
ののしられてもののしり返さず
私が受けるべき恥や責めのすべてを担い 
苦しみに耐え
私の罪のために死なれた・・・

とても感動的ですが、この十字架の出来事のみをよりどころにするなら、キリストはただの「偉人」で終わり、「ご先祖様が見守ってくださる」のと同じような感覚になりそうです。根拠とは感覚的なものではないですよね?

聖書にははっきりと、キリストは3日目によみがえったと書いています。神とは、時間や空間を超えて、永遠の昔から永遠の未来に至るまであらゆる瞬間に、あらゆる場所に存在しうる絶対的な存在者です。

だからこそ、十字架にかかったあの瞬間だけでなく、その時点から今に至るまで、いや、私たちが生まれるずっと前から、そして、私たちがこの生涯を終えたずっと後も、神さまの完全な愛は私たちに向かって注がれ続けています。

この注がれ続けている愛こそが、私が自分を愛する根拠なのです。

(関連記事 【大海原の一滴】自己受容を越えた境地 も ご一読くださいね)

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。