シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

記憶って…?

肯定的なものが優位に

あなたの記憶は100%真実だと思いますか?

私は、以前はそう思っていました。

確かに、
そう見た… 
そう聞いた…
そう感じた… からです。

ですが、最近、それは違うかもしれないと思うことがあります。

1年前と比べて、いや半年前と比べても子どもに怒る回数が減ってきました。イライラすることが少なくなってきました。

子どもたちからすれば、3割減くらいと言われるかもしれませんが、私の中では7~8割減の感覚です。
あくまでも主観的な感覚ですがね (笑)

で、以前は子どもたちが小さかった時の写真を見返すと、特に第一子の息子が1才くらいからの写真を見ては心が痛くなっていました。

こんな小さくて かわいいときから怒ってばかりいたなぁ~、
かわいそうなことしたな~と、
不憫に思ったり、後悔したり。

私が怒って、息子が泣いてた記憶ばかり思い起こされるのです。

特にひとりめって、比べる子がいないので、その子が小さいということに気づかないんですよね。そこに下の子が生まれたら、上の子はもう小さく見えることはありません。

ところが、このブログを書くようになった頃から少しずつ、私の心が健康的になってきて、ある時こう思いました。

写真に写っているこの子は笑っている!
ということは、少なくともこの写真をとる瞬間、その前後は、私はこの子に向かって笑っていたじゃないか…、楽しい時を過ごしていたからカメラを向けたんじゃないか…ということに気づきました。

怒ってもいたけど、笑ってもいたよなぁということを思い出すようになってきました。

心がいやされてきたら、否定的な記憶より、肯定的な記憶が優位になるということなんでしょうね。

ほんとに不思議です。

共感と受容を実践

ところで、昨日、近くの子ども服売り場で娘の普段履きの長ズボンを買いに行ったのですが、支払いをしている間、娘は一人で店内をうろうろして、いつのまにかフォーマルウェアを見つけて、「これかわいい♡」って感じでニコニコしていました。

おさがりでもらっているのがあるので、買うつもりはなく、店を出ました。

ところが家についたら、ひとりでベッドにもぐり、しくしくしていました。
あの服のことだよねと言ったら、大声をあげてずっと泣き続けました。

はい、ここで共感と受容ですね~!

私もこの1年、学習してきましたので、
「かわいかったよね~。ほしいと思ったんだよね~。でもがまんしたんだよね~。」と抱っこしながら娘の気持ちを言葉にしていました。

この子は服が好きなのに、おさがりばかりだとこの子の感性を埋もれさせてしまうのでは?と思いましたが、今はこの子の「悲しい」「残念」という気持ちを受容することが最優先!
買うか買わないかはそのあとの話です。

そのうちやっと本人の口から「ほしい~」という言葉が出てきたので、これでもう大丈夫だと思いました。

娘としては、欲しいものは買ってもらえなかったけれど、泣いたり言葉にすることでその残念な気持ちを表して 受容されたので、手に入らなかった事実は、否定的な思い出としては残らないと思います。

怒ってばかりいた私も、やっとここまで対処できるようになってきました。

その後、ご飯を食べたり、お風呂に入ったりして、ゆっくりしていたら、娘が
「わたしね、あの服ほしいの がまんしたんだぁ~」と笑って言ったので、

(卒園式や入学式のために)もう準備してあるんだよ。かわいいの、うちにあるんだよ。見てみる?」と、そこで初めておさがりのフォーマルウェアの話をして見せました。
娘も嬉しそう。
今まで見せないでよかった~。

「もう遅いから、着るのは明日にしようね」
「うん」

そして今朝、すぐに着ていました。
レースの靴下をはいて、セットでもらっていた靴まではいていました。
しわにならないように、すぐ脱いでハンガーにかけたのですが、しばらくしたらまた着て、楽しそうに嬉しそうにしていました。

親の記憶と子の記憶

欲しいと言ってた服を買ってあげたい気もするけど…という内容とともに、おさがりを着た娘の写メを送ったら、母から電話がきました。

姉と私が成人式で着た着物を母が友人に貸していたのがちょうど返ってきたところだという話。

その着物、もちろんまずは長女の姉のために買いました。
すなわち姉好みの色合いです。
品のいいシックなブロンズゴールド系。

私は数百万円するその着物を優越感をもって着ていた記憶しかありませんでした。(バブル期でしたからね。親も見栄があるでしょうし、知り合いの呉服屋さんに勧められるまま買ったそうです。他に着てくれる人がいてありがたい。)

そして、母がこんなことを言いました。

「アンタが成人式でこの着物きるとき、『これはおねえちゃんの好みやから私はいやや』」って言ったのをいつも思い出してなぁ。アンタやったら赤やほかの色がいいんやろうとママも思ってたけど、当時はレンタルなんて発想もなかったし、なんせ高かったから無理して着せてしまったなぁって、かわいそうなことしたなぁっていっつも思いだすねん。」

え~っっ!?

「そんなこと言った~?」って何回も聞きましたが、
母は「ほんまにそう言うてたよ」と。

記憶にございません とはこのことか?(笑)

私は優越感の記憶、かたや、母は かわいそうなことしたという悲しい記憶。
母がそんな風に思ってきたことも、母にしたら私がそんな風に思ってきたことも、お互いこの二十数年知らなかった…。

記憶って主観的なものなんですね。
主観的なものの見方しかしていなかったら、記憶が主観的になるのは当然ですよね。

・・・ですが、今回の母との会話では大切なことも判明しました。

「そんな色の着物なんて着たくない」と言ったことが記憶から消えてしまうほど、すなわち、自分の感性を価値なきものとするほど、私は自分に自信がなかったということ。(少なくとも言葉にできたことはよかった)

周りの誰よりも良いモノであったという優越感や、姉とは好みが全然違うのに、姉が良いというなら良いのだろうという姉の価値観を自分の価値観にしてしまったこと。

そりゃ、人生苦しかったやろね・・・と、その時の自分にハグしてあげたくなりました。

なにはともあれ、人は共感され、受容される経験を重ねれば、心は回復し、その記憶も肯定的なものに変わっていくことを体験したお話でした。