シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

この子と生きる

うちに遊びに来た子

「目の前に 保護がなければ倒れてしまう子どもがいる。私はその子と生きる。」

前回、このように書きました。もともとそう思っていたから書いたのではなく、ブログを書きながら心と考えが整理されていくうちに気づいたことでした。

子育てという言葉を使うから、なんとなく親が上で 子どもが下みたいなイメージがありました。自分の親に対しても、自分の子どもや他の子どもに対しても。

私のそういう考えは、この表現に気づいてから少しずつ薄れてきています。まだこの何日かのことなんですけどね。

最近、息子のクラスメイトがうちに来るようになりました。息子とはタイプが違い、息子と遊びたいというよりは、わが家と息子の持っているものがちょっと目新しいから…という子もいます。とにかく元気はつらつ、平均的な3年生男子たち。

ゆるくなってきたとはいえ、規範型傾向の私は彼らの粗野な態度にイライラすることもあります。以前だったら、その子たちの生活指導者に任命されたがごとく、気になることがあればすかさず注意していたと思いますが、だれも私をそんな役に任命していないことにようやく気づきました(笑)。

うちの中でしてほしくないことは伝えますが、基本は自分の子と生きるように、その子と生きることなんだろうと思うようになりました。うちに遊びに来ている時間は短いけれど、この子はこの子で今ここに生きているのだから、その間はこの子と生きる、それだけのことなんだろうと。

この考え方は、子どもに対して上から目線だった私の気持ちをラクにしてくれます。

子どもの世界に入る

息子は一点集中型。そんなときに、「〇〇の時間だよ~」と声をかけもて中断しません。夫いわく、「あれは男脳の中でもかなり強い男脳の持ち主だ」と、夫自身の兄を思い浮かべながら息子を分析していました。そして、そういう「男」の扱い方を知っていました。

「あの子を動かすには、あの子の世界に入ったらいいんだよ」

たとえば、レゴで遊んでたらそのことに興味関心を示すように話したり関わる。工作をしていても、本を読んでいても、息子が入り込んでいることに共感する。一緒にやる必要はない。そして、行かせたいほうにやんわり誘導する。オレ、いつもそうやってんだ~。

ふ~ん。そうなんだ~。(めんどくさ~)

まぁ、余裕があるときは心がけるとして、夫の言葉をきいてこういう話を思い出しました。

共感とは、向かい合って座り お互いの顔を見ながら視線を交わすことじゃない。横並びに座って同じ方向に視線を向けることだ。

私は、子どもと遊ぶよりも、子どもが遊んでいる姿をみるのが好きでした。小さな頭でなにを想像しているんだろうとか、小さな手で何を作ろうとしているんだろうとかそんなふうに客観的に見るのが楽しいのです。

だけど、その距離感だと、子どもは目の前のことに夢中で私が見守っていることなんて気づきませんよね。もちろん、自分がしていることを承認してもらうかのようにこちらを見るときは、笑って視線を向けますが、子どもの存在を感じて嬉しく思うのは親側であって、子どもにしてみれば、自分のしていることを親が楽しんでくれることほど 嬉しいことはないのかもしれませんね。

この子と生きる

子育てって結局のところ、シンプルに「この子と生きる」ことなんだと思います。

そんな単純でいいんだと思います。

「どう育てるか」 ( How? ) と問い始めるから、方法 ( How to / ハウツー)を求めて、迷ったり苦しくなったり、はたまた後悔したりするんだと思います。

この子が「どう育つか」は、親の想像を超えるものだと思うし、「どう生きるか」はこの子が決めること。

だから私はただ「この子と生きる」。泣いては笑い、笑っては泣き・・・その連続。それだけのことなんだと思います。すべては神さまの守りの中にあると信じて。

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。

 参考文献:
『プロカウンセンラーが教える 子どもの心をひらく魔法の会話』/伊藤 友宣著/青春出版社

(前回記事→母親の資格? )