シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

管か 器か

山が多い日本には水の名所がたくさんありますね。

北海道にも羊蹄山の伏流水が湧出する区画を公園として整備し、湧水の採取スペースが設置されている「ふきだし公園」というところがあります。流しそうめんの竹のように、丸太を彫って流し台にして途中で水が汲めるようになっています。

その水を別の場所に流そうとしてホースをとりつける人はいません。水が湧き出るその場所に行って、あふれこぼれる水の下に受け皿となる手や容器を差し出すだけです。とてもおいしくて、自然の恵みに感動する瞬間ですね~。

さて、クリスチャンが使う表現のひとつに「通りよき管」というのがあります。

たとえば、「あなた(神さま)がなさることを私が邪魔することがありませんように… あなたが願うことを行なう者になりますように… 私をあなたの通りよき管として用いてください。」と祈ったりします。簡単にいえば、神さまの愛をそのまま他の人に流す者ってことですね。

初めてこの表現を聞いた時は すてきだなと思いました。このような祈りも大好きでした。神さまを愛するがゆえに、神さまが願っておられることをしたい。それは自然なこと、純粋な信仰の表明だと思います。

しかし、ここにきてふと立ち止まりました。神さまはご自身を愛する者(クリスチャン)を「管」とは思っていないんじゃないか、と。聖書には「通り良き管」という言葉はありません…。

管という言葉ではなく、「器」という言葉が出てきます。クリスチャンは「宝(キリストの光)を入れる器」だと表現しています。(Ⅱコリント4章7節)

聖書には、神さまと神さまを信じる人との関係を表すのに「羊飼いと羊」「花婿と花嫁」などのような比喩がいくつか出てきます。この他に「陶器師とその手の中にある粘土」というのがあります。

陶器師は、自分の思うままにその粘土を用途目的に合わせて形づくることができますね。

聖書を読み続けてきた私は自分が器であることを知っていました。ですが、「~ねばならない」という枠(ルール)にはまりやすい規範型思考の私は、

「器として神さまの愛を受けて、管としてその愛を流す者でなければならない。」

という枠にとらわれていました。でもそのようにはなれず、愛を流せないことに落ち込んだり、器どころか自分がザルであるかのように感じることもありました。

息子との会話も少なくなり、怒ってばかりの育児に母子ともに疲れ、行き詰まりました。通りよき管になんてなり得ないことを思い知らされました。怒らないようにするには方法論ではなく、内面を見つめなおすしかないと思い、少しずつありのままの自分を許し受け入れる作業をしてきました。そして、「~ねば」「~べき」という枠を広げ、ゆるめ、とりはずしていく中でわかってきたことは、私は器でしかない、ということ。

神さまの愛を流すための管じゃない。
神さまの愛を受けるだけの器だと。

今では、誰ひとり、自分が管となって神さまの愛を流すことはできないんじゃないかと思います。ホースそのものがあふれ流れる水を制限してしまうし、ゴムのにおいが混ざってしまいます。人の思いが混ざった瞬間に、それはもう神さまの完全な愛ではないんですよね。

神さまの愛が人々に流れるとしたら、私という器が神さまの愛で満タンになって、あふれこぼれたものが人々に及ぶだけなのかもしれません。

私が意図して流すものではなく、自然にあふれていくものなのかもしれません。

だとすれば、人々が私を通して神さまの愛に触れたとしても、私自身は気づかないでしょうね。それが「自然」なこと。それに気づくことは不自然なのです。

愛を受ける対象として

神さまは愛のお方です。
愛のかたまりで、愛の発信元(もと)です。
その愛は名詞ではなく、発信者と受信者の関係です。

発信元である神さまにとって、愛がそこに存在していることをあらわすためには受け手、すなわち、愛される存在が必要です。愛を注ぐ対象が必要です。それが私たち。器である私たち。神さまの愛を受ける器です。

愛してくださる神さまに応える言葉があるとするなら、「神さま、あなたをもっと愛します。」ではなく、
「こんなに愛してくれてありがとう。」で十分です。

「あなたをもっと愛します」「もっと愛したいです」という言葉は、「今はまだ あなたへの愛が足りなくてごめんなさい」と言っているようなものです。私はよく「もっとあなたを愛する者につくり変えてください」などと祈っていました。

神さまをもっと愛そうとしたところで、神さまが愛してくださるのと同じだけ愛せるわけがありません。自分の足りなさを嘆くだけの人生になってしまいます。神さまは私たちからそんな嘆きやお返しがほしいのではなく、その愛に気づいてほしいだけ…。私たちに差し出せるものがあるとするならその愛への感謝だけです。

自己受容を積み重ね、「~ねば」という枠を取り外すようになってきたら、このことが頭ではなく心でわかるようになってきました。低かったセルフイメージが修復されて健康的になってきた証拠でもあると思います。

コップ半分の水を「半分しかない」と思うか、「半分もある」と思うか、それと似ていると思います。私の内に愛がないことは変わらないのに、全体のとらえかたが以前とは大きく変わってきました。

私たち人間は神や人を愛するためではなく、「愛されるため」につくられました。愛を流すためではなく、「受けるため」につくられました。だから、「愛せない」といって落ち込む必要はないんですね。もともと愛するようにはつくられていないんですから、愛せないのは当たり前なんです。

月が地球の夜道を照らすのは月が光を放ってるからではなく、太陽の光を受けているからです。愛そうとすることは、月が太陽に照らされているとは知らずにもっと光を放とうとしているようなものです。もし、月が夜道を照らしてやってんだよと誇ったり、もっと照らそうとがんばるなら滑稽さを超えて気の毒にも近いありさまです。

同じように、私たちが愛することができるとすれば、器からあふれこぼれた神さまの愛によって…でしょうね。そうであれば、愛せたところで自分を誇ることはできませんね。

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。