シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

共感して信頼を得る

共感のつもりがオウム返し

信頼残高という言葉を初めて知ったのは半年くらい前のことです。

正直、子どもたちの言動からすると、私に対する信頼残高はゼロに近い数字だと思います。それに気づいてからは、なぜ信頼されないのかを自分なりに分析していましたが、私のあのときの言い方…、あのときの態度…という発想しかできませんでした。

そういう探り方だと後悔と自己嫌悪しか出てこず精神衛生上よくないので、逆に、「私は子どもを信頼してきたか?」と問うたとき、それもほぼゼロだったとすぐ答えが出ました。子どもにすれば、「自分が信頼されてないのに、ママを信頼するわけない」ですよね。

私はどちらかといえば人を信頼するほうだと思っていました。相手の言葉を額面通り受け取るタイプなので信じやすいというか…。でも、よくよく思い返してみると、信頼しているといいながら、その中に「依存」も混ざっていたのかもしれません。

子育てや不登校に関する本を読むと、共感することが大切だと書いていますよね。子どもが言ったことを反復することが例としてあげられますが、私は口では「そうなんだ~、〇〇なんだねぇ」と言っていても、頭の中では、考え事を続けていたり、目の前の家事を優先していました。

共感しようと思いつつも、私が子どもにやってきたことは、ただのオウム返し。そして、命令(~しなさい)、指示(~して)、提案(~したら)がほとんどでした。

共感は信頼へ

親子間の信頼関係は共感することで築かれるのかな…とやっと気づいてきました。ある人にとっては当たり前のことでも、私にとっては目からウロコ。なぜか?「信頼すること」は「共感すること」だとすれば、私は親から共感されたと感じたことがあまりないからです。

自己受容を学んでいなかったら、親を責めたり自分を責めたりして、ずっと落ち込んでいたと思います。「嬉しい時も悲しい時も、共感して理解してくれる人がいなかったなぁ。さびしかったなぁ。ひとりぼっちだったなぁ。」こういう思いにひたって自己を受容するのが自己受容。

親が受容してくれてたら今こんなことを自分でする必要はありません。かといって親を責める必要もありません。だれかを責めて解決するものではないですからね。それに、親自身もまた、その親から共感されなかったんだろうな、と祖父母を思い出して想像します。(自分の気持ちを受容するときは、このような大人目線にはならない方がいいです)

自己受容ができた分だけ、他者受容ができるようになるそうです。今回のことでいえば、自分に共感した分だけ、他者に共感できるということでしょうか。

共感と同情の違い

共感と同情の違いなんてあまり深く考えたことはありませんでしたが、ある本を通して、それは違うということを知りました。

同情は一方通行。その意味は、1人でも成立しうるということ。同情はテレビに向かってもできますよね。悲惨な報道を見て「あぁ、かわいそう。つらいだろうな。」と相手に自分の気持ちが届こうが届かまいが関係ありません。それはあくまでも、自分の枠(価値観や経験)から推測したあわれむ気持ち。

共感は対面通行。その意味は、話し手が聞き手の言葉を受け取って「わかってくれた」と感じたときに初めて成立するもの。同じ時間を共有している会話の中で成立するもの。

自分の気持ちを話してるのに、「この人に話していてもなんか心が通わないなぁ」って感じたことありませんか?そういう時は「共感された」「気持ちをわかってくれた」とはなりませんよね。(その人も共感された経験が少ないのかもしれません)

自分が話し手なら共感されているかどうかがわかりやすいのですが、気をつけたいのは、自分が聞き手の場合。共感したつもりなのに、相手に伝わっていないということが、私と子どもの間では往々にありました。

まずは、自分で自分の気持ちを素直に味わう。→自己受容
そうしたら、子どもの気持ちや相手の気持ちに、共感的に理解できるようになっていくんだと思います。→他者受容
そのうち、信頼の絆が固くなっていくんでしょうね。→信頼残高アップ ヾ( ゚∀゚)ノ゙