シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

間違いではないけど 正解でもない

正解ってあるのかな

ドラマや映画を見ていると、心に残るセリフがあります。
それはきっとその時の自分に必要なメッセージなのかもしれません。

先日もテレビドラマで、「それは間違いではない。だけど正解でもない」というセリフがありました。

本当にそうだなと思います。
ある人の意見は正解かもしれませんが、他の人にとってそうとは限りませんよね。

以前は様々なことに対して、常に「正解」を探していました。

問題意識があるというと聞こえはいいですが、何かにつけて評価したり問題視するという状態は、それ以前に理想や期待が常に念頭にあり、現状を受け入れていないということ。

その理想と現実との間にギャップや疑問、葛藤が生まれます。

それに対して正しいとか間違っているとかをジャッジし、満足していいのか満足してはいけないのかを判断します。

このようにいつも正解が何かを探す姿勢はずっと戦闘モードになっているようなもので、リラックスできません。

私は何十年もの間そんな緊張感をかかえて生きてきたことをこの数週間でようやく自覚しました。

マッサージ80分でわかったこと』『歯 力 抜く』を書いたときはまだ気づいていませんでしたが、頭からつま先に至るまで体全体が筋肉の内側まで凝っていることや、無意識に歯をくいしばるクセがあったのも、いつも心に緊張があったからなんですね。

話を戻しますが、そういう理想と現実のギャップを埋めるのは、「足るを知る」とか「感謝の心をもつ」とかではありません。

自分という存在を全肯定できたら、教えられなくとも自然に足るを知り、感謝の心が生まれてくるのではないかと思います。

自分をどう見るかは、親にどう見られてきたかに大きく影響されますが、それでも大丈夫だと今は思えます。

というのも、神様は私をまるごと肯定して受け入れてくださっているからです。自分も親も私という存在を全肯定しなかったとしても、神様の目に私は尊く映っていると知っているからです。

正解とかってないかもね

日常生活の中でおこるちょっとしたことなんて、どっちが正しいとか、どっちが間違っているとかいうのはないのかもしれません。

あったとしても、たいしたことではないのかもしれません。

いろんな人がいて、いろんな立場があって、それぞれの見解があります。

人生終わってみないとそれが正しかったか間違っていたか、よかったか悪かったかなんてわかりませんよね。

こんなことを考えていると、人って正しいか間違っているか、いいか悪いかで判断してしまうことがなんて多いのだろうと気づかされます。

それをさかのぼっていくと、聖書のアダムとエバがとって食べた禁断の実にいきつきました。それは「善悪の知識の木」の実です。

神さまが食べてはいけないと唯一禁止したものに手を伸ばしてしまいました。聖書ではこれが人間が最初に犯した罪だと書いています。

その実を食べたことによって、人は善悪の知識を身に着けました。

だから善悪をもとにした判断基準が生まれ、今に至るまでそれが受け継がれているのだろうと思います。

私みたいなタイプは「正解だ!」と思い込むと、相手に押しつけたくなりますが、それもまた自己受容・自己肯定が深まっていく中で薄れていくでしょう。

「それは間違いではない。だけど正解でもないかもよ?」

このセリフ、いろんな人の立場に立って言ったり言われたりするのを想像してみると、ちょっとおもしろいです。