シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【認めました】私こわれてるねん

頭をバチン

2週間くらいまえのこと、夫とケンカをしました。
子どものことで。
いや、子どもに対する私の態度が原因でした。

夏休みの終盤、防災週間が近づいていたので、非常用持ち出しリュックの整理や足りないものなど、半日くらいかけていろいろチェックしていました。(2016年の熊本地震以来、常に防災を意識しています。)

万一に備え、起こりえる状況を想定しながら家族全員分の防災グッズを確認し、最後は電池。

ストックしているものの中には新品だけでなく、残量が中途半端なものが何本もありました。子どもたちは夏休みでほぼ毎日Wiiをしてたので、Wiiのリモコンに入っていた電池も取り出し、一本一本、全部電池残量を調べ、中途半端なものはWii用に、新品はストック用にわけました。

そして、子ども達にWiiをするときはこっちの少ないほうから使ってねと話して、その電池はWiiのリモコンを収納しているかごに一緒に入れておきました。

念のため、寝る前にもう一度伝えました。

にもかかわらず・・・!
朝起きたら新品の電池をWiiリモコンに使っていたのです!

カーッとなって、
「こっちから使ってって言ったやろーっ」と怒鳴りながら息子の頭をバチンと叩いてしまいました。考えなしに手がでちゃったんですね~。

息子も泣いてしまいました。

出勤直前の夫がすかさず息子を抱きかかえ、私を責め始めました。

「電池ぐらいでなにをそんなに怒ることあるの?」
(心の声)私が費やした時間も労力も知らんくせに!

「そんなに細かく分類して、難しくする必要ある?」
(心の声)何が難しいんじゃ!新品と中途半端の2種類だけやろが!

「そんなことぐらいで子どもを叩いて、子どもの心がこわれてもいいの?」

!プッツ~ン!
その言葉に私の目はすわり、静かに言いました。
「私こわれてるねん。
叩かれて蹴られて
怒鳴られまくって育てられたから、私の心こわれてるねん。」

夫の言い分に照らし合わせるなら、そう、私はこわれてる・・・。とっくの昔にこわれてる。「そんなことぐらい」のことで、どれほど怒鳴られて恐怖を味わってきたことか・・・。

この他にもいろいろ言われたので、夫の出勤後、息子に謝ってから、そして、電池は新品も古いのも全部ひとつの袋に突っ込んでから、家出をしました。1日だけね。
実はその日に80分マッサージに行ったんです マッサージ80分でわかったこと

こわれてるんや、ふ~ん

家を出てからずっと、「私こわれてるねん」の言葉がかけめぐりました。

でも、なぜか心が楽になっていきました。

こわれている自分を認めることができたような…。
ん?私は自分がこわれてることを認めたくなかったのか…?

いや、心が傷ついていることは認めてるし、それが癒されていっている過程も楽しんでるくらいなんだけど…。
なのに、なぜ「こわれてる」というひどい言葉を通して私はホッとしているんだろう…?

それはきっと、それまでの自分を俯瞰(ふかん)することができたからだと思います。

私の心が「傷ついてる」という なまやさしい程度ではなく、最悪の状態、「こわれてる」という言葉にしたことによって、立ちはだかる現実に降参したという感じでしょうか・・・。

「子どもを傷つけないようにしようとしてきたこと自体そもそも無理だった。所詮、無理なことをやればできると思いこんでた。アホやな~。」と、自分を滑稽に思えたというか・・・。

「傷ついてきた私、かわいそう」ではなく、もっと遠くから見下ろして「こわれてるんや、ふ~ん」とちょっと冷めているような・・・。

どうしようもない現実は、どうでもいい

そんなことを思いめぐらしていたら、タイムリーにある本の1節に出合い、スッキリしました。

「なんとかしなければならない現実」から「どうしようもない現実」に変化したからだ。

要点をまとめると、
「なんとかしなければならない現実」の前では、なんとかするために現実に近づき、いつも暗く重たい現実と接触する必要がある。
しかし、万策尽きて「どうしようもない現実」になったとき、人は現実から離れることができ、暗く重たい現実なんて、もうどうでもいいと思い始める。

なるほど。
どうしようもない現実は、どうにかしようとしても、どうにもならないですからね。

「なんとかしなければ」と思っているうちは、やれそうなことをやってみようと果敢に(?)チャレンジしますが、うまくいかずに、暗く重たい現実に打ちのめされてしまいます。

しかし、結局のところ「自分は何もできない」という結論に達したなら、人はがんばることをやめざるを得なくなります。すると、力が抜けて楽になるということなんでしょうね。

「私こわれてるねん」と言ったあの日の私はこのプロセスを通りました。

その本によれば、そういう小さな一言がその人の内に変化を起こすようです。その一言はもちろん人によって違います。

ありきたりな言葉でも、その人にとっては初めて口にする大きな一言なのかもしれません。

それを言えた瞬間、暗い現実に対する敗北を認めて過去の自分と訣別したことになります。
新しい自分が動き始めます。

古い自分への解釈の枠組みのなかで動き出した新しい自分は、もうそこにはとどまってはいられません。新しい自分への解釈がみつかるまでは自分をニュートラルな状態に放っておきます。それでいいんです。それが力を抜いた自然本来の状態だから。

風が吹く方向に導かれていく。それでいいんです。

人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。(マタイ9章17節)

認めることはつらかったり、しんどかったりします。
でも、認めることができたら新しい何かが始まります。

※今回のタイトルは、以前の投稿記事『私は最初から完成品 』と矛盾するように思われるかもしれませんが、切り口が違います。『私は最初から完成品』はBeing(存在そのもの)についてです。今回は、家庭環境や親の言動など外的要因によって、私はこういう者だ(傷ついた、こわれている、など)と主観的に思い込んでしまった自分への解釈が変化したプロセスについてです。

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。

参考文献:『人は変われる[大人のこころ]のターニングポイント』/高橋 和己 著/ちくま文庫