シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

怒る+責め=ダメな子ねぇ

セルフイメージを崩す親の無言メッセージ

改めて書きますが、私は何かあると落ち込むより、腹が立ったり相手を責めたりします。「怒り」は私が生きていく上で最も親しい感情、かつ、最も嫌いな感情でした。

だから、私のブログでは、怒りを取り上げることが多いです。
が、怒りは二次的な表れに過ぎません。
怒りがこみ上げる前には一次的な反応、すなわち、悲しみや惨めな気持ちが存在します。

なので、何かあるとすぐ落ち込んだり、自分を責めるタイプの人にも共通する話があると思いますので、ここから何か少しでもヒントを得られるものがあれば幸いです。

ということで、前回の続きです。

『鏡の法則~完全版』(野口嘉則 著 / サンマーク出版)を参考にして、父への否定的な感情を処理する手順①~⑧のうち、⑥まではお話しました。

今回は、⑦のところで、なぜ、私が父親の愛を拒絶していたのかが判明した、という話です。

⑦のステップは、父親との関係を通して何を学んだかを書き出すというものですが、それより数週間前に野口さんのメルマガを読んで大きな気づきが与えられていました。

それは、親から口うるさく言われた子は、自分をありのまま受け入れてもらえないんだという無言のメッセージを受け取るという内容でした。

たとえば、先回りしてしまう親の心理は、子どもが失敗する姿を見たくないからです。それは、「失敗するあなたを私は受けいれられません。」と言っているようなもの、ということです。

私の父は過保護でも過干渉でもありませんでしたが、とにかく自分のルールに従わないとすぐ怒る人でした。

きっかけか?原因か?

私が小学4~5年生のとき、なぜか父とふたりだけで家にいて、うな重をとろうということになりました。今ではピリッとアクセントになる粉山椒をおいしいと思いますが、当時はまだ子ども。甘いタレがからんだだけのうな重が大好きでした。

さぁ、食べようというときの私たちの会話です。

父「山椒かけるか?」
私「ん~、いいわ~」(遠慮気味に)
父「かけたらおいしいのに。かけるか?」
私「ん~、いいわ~」(遠慮気味に)
父「お前は味がわからんやつやなぁ。絶対おいしいのに。」
私「いいやん、私の好きな食べ方で」(愛想笑いしながら)

内心、こんな言い方したら怒られるだろうなと思いながら言いました。

案の定、父は、ビール瓶の底をガン!とテーブルにたたきつけ、テーブルにはまるくヒビがいきました。そのあとはもう無言の食卓・・・。

すぐ怒鳴り散らす父にしてみれば、なんとか怒りを抑えたようでしたが、怒ってることには変わりありません。父の態度によって、「父は私の味覚(感性)を尊重しないのだ」というメッセージを受け取りました。もちろん意識してこういう言葉で考えたわけではありません。

これはほんの一例で、何かにつけそういうふうなメッセージを受け取り続けた私は、父にとって私のすることはなんでもダメ、私の言うことはなんでもダメ、と、どんどんセルフイメージが低くなっていきました。

そのうち、私はどうせ愛されてないんだと思い込んでしまう(父の愛を拒絶する)にいたったのです。

メルマガを読んでそういうことに気づいたり、また、①~⑥の手順の中でそういう出来事を書き出したりしていきながらの
「⑦父親との関係を通して何を学んだかを書き出す、または、今後そのような人にどのように接すればよいかを書き出す」
でした。

私が学んだことは、
父が怒るのは、私が「きっかけ」なだけで、私が「原因ではなかった」と知ること。

これは本当に大きな気づきでした。

怒るという現象は、その状況を直視できないことの表れなだけです。恐怖を抱かせるような態度をとって強そうに見えますが、実は感情的にもろく弱い人なのです。

これは私が親になり、子どもに対して怒っていた時も同じでした。

私が子どもに怒っていたのは、子どもが原因なのではなく、子どもの言動がきっかけなだけでした。原因は私のうちに、親に対する処理されていない否定的な感情があったからです。

そのことが分かってからは、怒っている自分に気づくときや、怒っている人を見かけたりそういう人を思い出したりしたときは、処理されていない感情があるんだな、と思うようになりました。

ダメダメシールをペタペタ

もうひとつ、大きな気づきがありました。

それは、怒りの中に責めが含まれていると、相手の自尊心を傷つけてしまうということです。

以前、『正論は剣となって人を刺す』という記事を書きましたが、これも、正論の内容自体が相手を傷つけるのではなく、それを語る側に、「私の言うことは正しい、あなたは間違っている」という責め(非難)のメッセージが含まれているから相手を傷つけてしまうんでしょうね。

散らかすという例で話をすれば、「子どもが散らかすから、私は怒るんだ」とずっと思っていましたが、散らかしたからといってすべての親が怒るわけではありません。それに反応するのは「そんなに散らかしてはダメ」という私の規範(マイルール)から子どもがはみ出たからでした。

これは、「散らかすあなたが悪い」「私の規範からはみ出るあなたが悪い」と、私が怒る原因は子どものほうにあるという前提です。その前提があるなら、その怒りに責め(非難)が含まれるのは当然ですよね。

なぜ、私がこうなったのかは、もうお気づきですね。
「オレの規範からはみでるおまえが悪い」
「オレが怒るのはおまえの態度が悪いからだ」と、父の怒りに私への責めが含まれていたからです。

これではタイトルの通り、怒る+責め=おまえはダメな子というメッセージを送っていることになります。

子どもの自尊心にダメダメシールをペタペタ貼るのと同じことなんですね。

子どもは無防備なので、良くも悪くも親のメッセージをそのまま受け取ってしまい、ダメダメシールを貼られたことに気づかないままその後の人生を生きていきます。そのうち、自分で自分に貼ってしまったり・・・・

やっかいなのは親のほうも、子どもにダメダメシールを貼っている自覚がないことです。そういう人自身も、実は、ダメダメシールを貼られてきたことに気づいていないんでしょうね。

 親もその親に、その親もまたそのうえの親に・・・とさかのぼっていけば、しまいにアダムとエバにいきつくんじゃないかと思います。

禁断の木の実をとって食べたとき、アダムはエバのせいにし、エバはヘビのせいにしました。ことの原因は自分ではなくアイツにあると主張するのは、人間が最初からもつ弱さなのかもしれませんね。

でも、まぁ、最近はそれでもいいと思っています。

なぜなら、イエスは、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたからです。(Ⅱコリント12章9節)

それでも貼られたダメダメシールははがしていきたいものです。

私が思うに、自分で貼ってしまったダメダメシールはけっこうはがしやすいのですが、親に貼られたものは年季が入ってるので一筋縄ではいきません。でも、ひとつひとつ、丁寧に時間をかけて心に向きあっていけば、やがていやされ、気づいたらはがれていた…というふうになると思います。