シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

思い出せ おまえが何者か

あの父の娘

「私は〇〇である」と知っていることによって奮起することがありますか?

私は25才でクリスチャンになる前まで、自分が「あの父の娘である」ということに誇りを持つことがありました。いつもではありませんが、自分の都合のいい時にはそう思えた瞬間が何度かありました。

父は事業をおこし、家族を養い、親戚からも信頼されていました。私の記憶では、お正月に誰かの家へ挨拶に行ったことはありません。親戚も、父の会社の人も、父の友人も皆うちに挨拶に来ました。

いつも人々の中心であり、人々のトップに位置する父を尊敬していたことは事実ですが、その反面、厳しく、感情的で、捉えどころのない感じがいつもありました。父からは愛情を受けましたが、同時に、不安や恐怖もたくさん受けました。

私は将来に対する漠然とした不安がいつもありましたが、そういう時は「あの人が父親で、私はその娘なんだから大丈夫」と、父のプラス面を思い出して自分の不安を払拭することがありました。

ムファサ王

話は変わりますが、先日、『ライオン・キング』をみました。
アニメーションはかつて英語の勉強のために何度も見たことがあり、ミュージカルを見たこともあります。今回は映画館で実写版を見ました。

ムファサ王は理想的な王、理想的な父として描かれています。アニメーションも実写版もかっこいいんですよね~!

亡くなった後はムファサロスにおちいりますが、そのあとに感動的なシーンがありました。

悪徳の叔父に王国を追われ、遠く離れた場所で気の合う友達と気楽にその日暮らしで生きればいいんだという考えに染まってしまった息子シンバに、亡き偉大な父なる王ムファサが雷鳴とともに雲の中から語りかけるところ。

「思い出せ おまえが何者か。」

この語りかけにシンバは自分が父ムファサの息子であること、叔父ではなく自分が王位に就くべきであることを自覚します。そして叔父によって荒れすたれた王国を再建するために立ち上がり戻っていきます。

神の子

映画の中では2回くらい繰りかえし言ったと思いますが、頭の中でリフレインしたのもあって私には5~6回響き渡りました。

思い出せ おまえが何者か。
思い出せ。思いだせ。
…私は何者なのか。

クリスチャンになる前は、父の娘であることを誇りに思いましたが、親は完璧ではありません。完全ではありません。親は大なり小なり子どもを傷つけてしまうものです。

しかし聖書の神はちがいます。
聖書には、神の独り子イエスを信じる者は神の子となる、とあります。イエスは天地万物のつくり主を天の父と呼びました。天の父と子という関係があり、信じる者はその関係の中にいれられるというのです。

そうだ。私は神の子だ。
慈愛に満ちた父なる神の子だ。

聖書では、イエスを信じる者(クリスチャン)は、イエスの友、イエスの弟子、イエスの花嫁などいろいろ形容され、そのひとつひとつが真実であり、深い意味があります。

ですが、「イエスの〇〇」と呼ばれるには、父なる神さまと父子関係にあることが大前提なのです。イエスの十字架を通して神の子とされたという自覚と土台です。

このシーンに感動したもうひとつの理由は、雷鳴がムファサの声に変わっていくことでした。聖書では雷鳴は神の声の象徴です。

聖書のある個所ではこのような描写があります。
雲がわきおこって、雲の中から神の声がした。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マルコ9章7節、マタイ17章5節)

そして何より、創世記から黙示録に至るまで、ライオン(獅子)は統治者なる王、そして救い主の称号として用いられています。あれもこれもがリンクして、感動の渦にまきこまれました。

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。