シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【大海原の一滴】自己受容を越えた境地 

自己なる一本の木

「木を見て森を見ず」とは、小さなことにとらわれて全体像を見失った状態のことで、あまりいい意味では使われません。とはいえ、やはり森はその字のごとく1本1本の木から形成されていますよね。自己受容は、この1本の木をいつくしむことなのかなと思います。

神さまは、全世界に木がこの1本しかないかのように、私という1本の木を大切に扱ってくださる…神さまの私たち一人ひとりに対する愛はそのようなものではないでしょうか。そして、神さまがなさるように、私も私というこの木を大切に扱うようになりました。

クリスチャンになってから、「自分を見るのではなく、他の人を見るのでもなく、神さまを見上げましょう」という言葉を何度も聞いてきました。そのようにして乗り越えられたこともありましたが、ついにそのアドバイスだけでは乗り越えられなくなった事態がおこりました(息子の不登校)。

私一人が悩んで済むことなら、たとえ解決されなくてもそれなりに生きていけると思います。でも、愛するわが子が苦しんだら…。しかもその原因が私にあるとわかったら…。

私のセルフイメージは低く、ゆがんでいました。私は自分の存在意義を意識せざるを得ない環境で育ったので、神さまを見上げようとしても、自分の弱さが目について集中できなかったのです。

感じ方や考え方も含めての存在

ところが、自己受容がすすんでいくと、「自分の存在意義は?」「自分とは何者?」と、自分に焦点があたらなくなってきました。きっと、その答えが出たからだと思います。その答えは人によってそれぞれだと思いますが、私の場合は、「私の存在は許可されている」「存在してOK」な人という感じです。

存在とは肉体的なことに限らず、感じ方や考え方も含まれますよね。それがOKになった(許可された・承認された)ということ。

幼少期に表した感情や考えを、親に否定されたら、自分の感じていることや考えていることは間違っているのかなと思い込み、何度も否定されてしまうと、自分の存在そのものにも「?」という疑問符がついてしまい、自分に対して肯定的にとらえられなくなります。

年齢が小さければ小さいほど感情と存在意識は直結していると思います。(だから、大人になってからも、自分のしていることを注意されたら、全存在を否定されたように感じていたんですねぇ)

で、そういう環境で育った私は、大人になったいま改めて、素直に感じる自分の気持ちや感情・自分の考えを自分で受容することが、自分の存在そのものを肯定することにつながっています。自分の存在を否定してきたつもりはありませんでしたが、私のように幼少期に無意識のうちに否定している例は多々あると思います。

「存在してOK」になったら、どのように育てられたかとか、親や家庭環境のせいにすることもなくなってきました。これまで歩んできた道が正しかったか間違っていたか、そいうことも大きな問題ではなくなってきました。

だって今ここに、この状態で存在しているのは、自分の育った環境やこれまでのすべての選択の結果の上に成り立っていること。だから過去のすべても全部OKになるという感じです。

そして今ここにいること、今感じていること、今考えていること、それにもOKが出せるようになってきました。このように「これが私の考えです」とブログを書いていること自体、私にとっては大きな変化です。

自分の存在にOKが出せる人は、子どもや他の人にもその存在(感じていること・考えていること・やっていること)にOKが出せるのではないでしょうか。たとえ、相手のやっていることが自分の価値観とずれていたとしても、許容できるような気がします。

 大海原の一滴になる極意

クリスチャンとして私が解釈する「自己受容」は、一般のカウンセラーが言っていることとは少し違います。一般的には1本の木としての「個」の確立のようなイメージで、私もそのように自己受容を学んできました。

ですが、最近思うのは、私は1本の木ではなく、1滴の「個」。「大きな海に溶け込む小さな1滴」というイメージ。あくまで信仰者としての個人的な感覚ですが、これこそがこのブログの根底に流れる大きなテーマ!

大きな海とは神さまの大きな愛。私という「個」は確立された存在であるにもかかわらず、神さまの大きな愛の波にのまれて溶け込んでいきます。けっして、取るに足らないモノという意味ではありませ~ん。

自己受容は、作業的には自分を見つめることですし、はためには自分の世界に浸っていると思われるかもしれません。でも、先ほど書いたように、自分の存在にOKという答えが出たなら、もう自分を意識することがなくなってきます。

自分を意識することがなくなると、私の周りには神さまの温かい愛が天からいっぱい注がれていて、その勢いにのまれていることに気づき始めました。私は最初からその流れの中にいたんだ、と。

その状況に、はたと気づいたとき、自分の存在云々ではなく、ただ神さまの愛と光がそこにあって、私はそこに生きているだけ。そこに存在しているだけ。そういう感覚にふと包まれます。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」(使徒17章28節)「ふと」した瞬間だけでなく、もっともっと継続的にその境地に長くとどまりたい…。ヽ(*^^*)ノ

(関連記事【存在意義を求める】受容された感がないから も ご一読くださいね)