シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

親は脇役

長すぎた子役時代

「あなたの人生の主人公はあなたです!」
こういう表現はとても響きがいいように聞こえます。自分が主体。自分が選ぶ。自分で選んだからこそ、その結果も受け入れる。

中学生の頃、「私は私でいいんだ!」「親や社会の価値観にふりまわされたくない!」「私の道は私が決める!」と多くの人が通るであろう思春期の葛藤を私も通りました。しかし、現実はまだ未成年ですし、親の威圧感などが壁になり、なかなか自分の思うようには生きられませんでした。

「自分は自分、他人は他人」と思う反面、自分の価値観に自信を持てずにいました。私がおいしいと思うもの、服のセンス、アイデアなど、私の感覚や価値観は尊重されない家庭環境で育ったからだと思います。

だから冒頭の「私の人生の主人公は私」とか「あなたはあなたのままでいいよ」というフレーズにとても惹かれました。やがて成人し、親元から離れ、自由を感じ、自分で選択して生きるよろこびに浸りました。

そうだ、私は主人公なんだ、と。

でも、主人公なはずなのに、いつもどこかで親に叱られないかな?きょうだいからバカにされないかな?という不安がありました。成人しても、精神的な子役が長すぎたせいで自信をもって主人公になることができませんでした。

子どもの主役の座を奪う親

さて、そういう状態で親になった場合、どういうことになるでしょうか?

自分の家庭をもち、子どもが生まれ、私が決めたご飯を与え、服を着せ、私が決めた時間にお風呂を入れ、寝かせるという生活。赤ちゃんのうちは親が全部決めるのは当然です。でも成長していく子どもの人生のなかで、ずっと私(親)が主人公のままでした。子どもの意思や選び取りを無視して、私が良しとするものを与え、私が良しとすることをさせる…。

私はそのように子どもの人生の主役の座を奪ってきたように思います。
そのため、テレビを見てもいい?庭に行ってもいい?など、私に確認しないと決められない子になり、片づけや入浴・就寝など私が言うまでは何もしない子になっていました。

主体性をもってやってほしいときだけ私は主役の座を明け渡す。でも子どもはうまくできないので、頼まれてもいないのに私が主役になって子どもがやるべきことをやってしまう・・・そんな日々でした。

主役であり脇役

私はいろんな役を持っています。時系列で並べると、子役、妹役、おば役、妻役、嫁役、母親役。これって全部、誰かの脇役なんですよね。

主役であるときに満足できているでしょうか?ひとりの人間としてやっていること、考えていることに、「私はこれでいいんだ」という自信と確信があるでしょうか?

私は専業主婦なので、働いている人よりは物理的にも時間的にも主役でいられることが多いはず。それなのに、どうして子どもの人生の主役になろうとしてしまったのでしょうか?

価値観を尊重される経験が乏しかったこと、完璧主義だったこと、操作主義だったこと、理由を探せばいろいろありますが、それらは「自分の存在が肯定されない不安感」という同じ根っこからきています。

自分を主人公に仕立てるための手ほどきを受けず(私が「これでいい」「これがいい」と思った感覚や価値観を認めてもらえず)、主人公になったとしても本当のところは不安でいっぱいでした。そんな不安から、子どもには、「主人公とはこうするもんだよ、あぁするもんだよ」と、頭の中でこれが正解だと思った模範を見せては主役の座を奪ってた・・・そんな気がします。

自分の人生の主人公として思いっきり生きてこなかったから、子どもの人生においても主役と脇役の違いが明確になっていなかったのかもしれません。

子どもはひとりの人間。その人生を歩むのは子ども自身。子どもが自分の人生の主人公でいられるために、私は親という脇役にさがります。あるときは近くに、ある時は遠くに。子どものセリフを奪わないように。子どもの動きを邪魔しないように。

そんなところに意識を向けつつ、私は私の人生の主人公でいようと思います。