シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

正論は剣となって人を刺す

規範型タイプは要注意

正義をふりかざす人ってちょっと偽善的な感じがして、周りは冷ややかな目でその人を見ることが多いですよね。でも普段の生活で、正義をふりかざしている人に出くわすことはそんなにありません。

では、「正義」を「正論」に言い換えたらどうでしょう?

会社や家庭の中で、もっと日常的に、もっと個人的に正論を主張している場面が繰り広げられていると思いませんか?私の一番身近なところでは、親が子どもに対して…ですね。

自分が相手に正論を言う場合、疑う余地がないほど的確で筋が通っていると信じています。対等の立場なら、「あなたはそうかもしれないけど、私は私でこういう信念があってやってるんですよ」って言えますが、上下関係や力関係がある場合はどうでしょうか?親が子どもに、教師が生徒に、上司が部下に・・・
言われるほうはどんな気持ちになるでしょうか?

この、正論を真正面からつきつける人は、「べき・べからず」のルールがたくさんある規範型のタイプが多いような気がします。その人が正しいとする価値観と間違っているという価値観の線引きがはっきりしていて、他の人の価値観やグレーゾーンを受け入れるのが難しいのではないかと思います。

私はそのひとりです。
自己受容をするようになってから、できるだけ子どもの意見に耳を傾けるようになってきましたが、それでも、いまだに正論を言って子どもを黙らせてしまうことがあります。いや、黙らせたいから言ってしまう…といったほうがいいかもしれません。

悪魔と戦うために聖書のことばを用いたイエス

言葉に力があるというのはよく聞きますよね。言葉ひとつで慰めを与えることもあれば、傷つけることもあります。そう、言葉は剣となって人を刺します。

以前の私は律法的クリスチャン・頭でっかちクリスチャンだったので、聖書にこう書いているからやろう(やめよう)と、自分にも子どもにも言っていました。

ですが、最近、祈っていて神さまから教えられたことがありました。それは、聖書のことばを振りかざす相手は人間ではないということ。

イエスが公に伝道活動を始める直前に、悪魔が荒野でイエスを誘惑をした場面があります。悪魔は3度イエスに話しかけましたが、イエスはその都度、「〇〇〇と(旧約聖書に)書いてある。」と、聖書のことばを引用して悪魔を去らせました。

エペソ6章17節には、「剣である神のことばを受け取りなさい」とあります。これは、信仰ある者は、悪魔に対しては剣である神のことばでもって戦いなさいという文脈です。イエスが悪魔の誘惑にあったとき、神のことばを武器にして戦ったように…という意味です。

ということは、子どもに対してやみくもに、「聖書にこう書いてあるからやりなさい・やめなさい」というのは、本来、神様が望まれる方法ではない…と思ったのです。

神さまは聖書のことばを、悪魔に対しては「戦うツール」として、人に対しては「神さまの愛を伝えるツール」として用いることを願っておられると思います。「道徳的な基準を伝えるツール」として使ったり、まして人間同士が「自分を正当化して議論するためのツール」ではありません。

自分の正論も同じだと思います。
責める気持ちや裁く思いで、聖書のことばを引用したり、自分の意見を主張したりすることは、剣を振りかざして相手を刺すことと同じではないでしょうか。

私たちの考えを判別するため

へブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い」とあります。でも、そんな鋭い剣である神さまのことばであっても、神さまから語られるなら、それによって自尊心が傷つくようなことは決してありません。

なぜなら、愛にあふれた方だからです。神さまのことばが私たちに向けられるときは、私たちを傷つけるためではなく、「私たちの心のいろいろな考えや思惑を判別するため」(同箇所)です。

私も、神さまのことばや自分の意見を相手に伝えるときは、愛をセットにして届けるようにこころがけようと思います。

(律法的クリスチャン→自分をさばくから他人をさばく も ご一読くださいね)

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。