シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【シャローム】わたしの目には あなたは高価で尊い

魂にしみる

聖書には、神様からの愛のメッセージがたくさん書かれています。

でも、旧約聖書なんかはユダヤ民族の歴史がつづられているので、それが今の自分にどう関係するの?と思われるかもしれませんね。

ところが、ある日、ある時、ある瞬間、聖書のことばがバーンと目に飛び込んでくることがあります。
それが神様が個人的に語りかけられた瞬間です。

わたしの目には、あなたは高価で尊い(たっとい)(イザヤ43章3節)

これは旧約聖書にあることばです。これまで1度も感動したことがなかったのですが、聖書を読み始めて20年目にして、ようやく魂にしみ渡りました。

もうね、感動して涙があふれるんですよ。神さまとの出会いというのは、そういうものです。頭ではなく、心にせまってくるんですね。

以前、図書館で『鏡の法則~完全版』(野口嘉則 著 / サンマーク出版)という本を手に取りました。

それから半年以上が経ち、この1~2週間、そこに書いてある手順に従って、父親との関係に向き合う作業をしていました。

こんなことをして本当にラクになるのかと半信半疑でしたが、野口さんのメルマガを読んだり、動画セミナーを見たりしてたくさんの気づきを与えられました。会ったことはないのに信頼感があるので、書いてある通りにしてみました。

自分の心に向き合うようになって1年。生みの母・育ての母への感情がほぼ処理されてきて、ようやく父親との関係に向き合うことができるようになってきたところでした。

ここにきて私の願いは、もはや心が癒されることではありません。
父親への否定的な感情が処理されることを通して、天の父なる神の愛の中に完全にひたりたい…それだけです。

父親への否定的な感情に向き合う

その本によると、相手(父親)をゆるすための手順はこうです。
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①父親に対する否定的な感情を書き出す。

②父親がとったゆるせない態度を書き出す。

③なぜ父親がそういう態度をとったのか動機を探る。

④父親に感謝できることを書き出す。

⑤ありがとうと声に出して言う。

⑥謝りたいことを書き出す。

⑦父親との関係を通して何を学んだかを書き出す。

⑧ゆるしを宣言して手放す。
==============

①の否定的な感情を書き出すところで、
私が最終的にいきついた言葉は「しんどい」「しんどかった」でした。

幼いころから、ずっとこの言葉を心にかかえて生きてきました。
ため息をつくとき「はぁ~、しんど」って、いつもこの言葉が出ていたナゾが解けました(笑)

②のゆるせない態度のところでは、
4つ目を書き出したときに涙があふれました。
「私、本当にしんどかったんやな。かわいそうやったなぁ。」って。
自分をかわいそうに思う気持ちは、癒しのプロセスにはとっても大事です。(関連記事『【価値観のプログラミング】子どもと遊べない本当の理由』)

③の動機を探るところでは、
父が怒ったのは、
「父の規範から私がはみ出たから」
「父の期待した態度をとらなかったから」であり、
それは「天の父も、ありのままの私を受け入れない」ということを無意識に信じ込んでいたことが判明しました。

さて、⑥の父に謝りたいことで手がとまりました。
謝ってほしいことはあっても、私が謝ることなんてない、と。

ですが、その本の例にならって書いてみました。
たった一つだけ。

「高校生の頃に時計を買ってくれたのに、喜んでつけなかったこと」

 それをくれた時、姉や兄には(会社も順調だったので)それなりにしてあげられたのに、アンタにはこれぐらいのものしか買ってやれなくてごめんやで、と母から聞きました。

これぐらいのもの…と言っても、何十万円もする時計です。

それをどうしていたかというと、高校を卒業してしばらくはつけましたが、姉は姉でいいのを持っていたのに、その時計を羨ましがったので、ずっと姉に貸していました。私も姉のほうが似あうと思っていました。

そうした理由は、
・大人っぽくて似合わない、
・私には高価すぎる、
・私自身の価値とつりあっていない=私がつけたらみっともない。

でも、書き出していくうちに、父は私をそんな価値の低い者としては全然見ていなかったのでは?という思いになりました。

父の中では安いと思っていたくらいの時計。本当はそれ以上のものを買ってあげたいと思っていた。

ここで、先ほどの聖書のことばをノートに書きました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い(たっとい)

涙があふれてきました。
父の目には、私は高価で貴く、(自分では分に合わないと思っていた)その時計をするにふさわしいと映っていた。
みっともないどころか、私に似合うだろうと想像しながら母と選んでくれた。

時計をつけないことは、その父の愛を拒絶してきたことと同じなんだと思いました。(なぜ父の愛を拒絶する思考回路になったのかは、⑦で判明したので、次回書きます)

シャローム

そして、天の父に対しても同じ思いでした。

「ありのままの私では受け入れてもらえない」という思い込みから、「父なる神さまの目に、私は高価で尊く映っている」に変わりました。

今まで天の父を遠くに感じていました。頭ではわかっていても、実感として近くに感じてこなかったのは、育ての父親と心理的な距離があったからでした。しかし、父親に対する苦い否定的な感情を手放せたことで、やっと、父なる神の愛の完全なシャローム(平安)の中にはいることができました。
ここが私の帰る場所。
ここが私の逃げ込む場所。

それを自分のものにできたら、誰になんと言われようと、誰になんと思われようと、そんなことはちっぽけなこと…と思えるようになりました。

イエス・キリストが十字架にかかったのは、私たちを創造主なる父のもとに招くためです。(関連記事『信仰と脳科学』)

イエスは言われた。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14章6節)

ある人は奇跡的に神の愛を体験します。私は長い間それを願っていましたが、願ったようには体験しませんでした。

時間をかけながら、心の絡まった糸をひとつひとつほぐすプロセスをたどるように導かれたのは、母親をゆるし、父親をゆるすため。

そして、巨人のように立ちはだかっていた父も、 実はひとりの弱い人間であったと知るため。その弱い人が私を愛してくれていたことに気づくためだったのだと思います。

去年、7才だった息子は小さな体を張って、不登校という形を通して「ママは怒ってばかりで、ぼくは苦しい」というメッセージを発しました。

母・子ともに行きづまって苦しかったですが、そのことを通して神さまが私に到達させたかったのは、私が父なる神の愛とシャロームに憩うことでした。

そのシャロームは息子にもおよんでいます。今年度から朝は送り、帰りは私が用事があるとき以外は迎えに行っていたのですが、「もう学校になれてきたから、迎えに来なくてもいいよ」と言うまでに回復してきました。つい先週のことです。

来年は下の娘も小学校に上がるので、朝、一緒に歩いて行くのが楽しみだとふたりして言っています。

時計のことですが、結婚するときに姉から返してもらいました。電池がきれて、オーバーホールするにもお金がかかるのでずっとしまったままでしたが、近いうちにきちんとメンテナンスしたいと思います。