シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

信じた自分を信じる

信じる

「信じる」生活をしていますか?

「信じる」って、具体的に目に見える行為ではありません。信じていることが行動にあらわれることはありますが、出発点は心の中における決心です。

先日、片づけに関する記事や本を探していました。子どもがなかなか片づけないので、何か動機付けになるヒントがないかなぁと検索していたら、今までにないアプローチが掲載されているものを見つけました。

リビングルームやトイレ、キッチンなどそれぞれどういう心構えで片付けに取り組むかというような内容で、子ども部屋に関しては、「子どもを信じた自分を信じる」(だから手出し口出ししないこと)の一言に、目が釘付けになりました。

「子どもに部屋を与えるのは、自立したとみなしたからこそ。だから基本的にはノータッチでいい。そういう意味では『子ども部屋』と呼ぶこと自体ふさわしくないと思う」というようなことが書かれていました。(この定義については賛否両論あると思いますが、ひとつの考え方としてここに書いておきます)

私は今まで「子どもを信じる」ことを躊躇してきたように思います。「信じる」ところには、こうであってほしいという期待が潜んでおり、その期待が実現しなかったらショックが大きいので、信じたいんだけど心は揺らぐ…の繰り返しでした。

信じて生きる道

でも、この一言で「あ、信じた自分を信じるのかぁ」となんだかホッとしたような気持ちになりました。裏切る裏切らないも自分次第。「子どもを信じた自分を信じる」なら、子どもに過剰な期待(理想)を押し付けなくてすむような気がします。

これは、信仰をもって生きるのと共通しているとも思いました。私は神さまを見たことはありません。神さまがなさったとしか言いようがないような奇跡的な経験をしたこともありません。

でも、10年20年と信じてきた年月を思うと、今さら神さまを信じないで生きていくのは、あまりにその年月を無駄にするような気がします。

クリスチャンとして、たとえイエスが神でなかったとしても、復活していなかったとしても、私はイエスを神とし、復活して今なお私たちの間で働かれる神だと信じて生きていくほうを選択します。まさに、信じた自分を信じる、です。

子どもの片づけに限らず、私にとってはもうひとつ不登校の息子に復学してほしいという願いがあります。これについては、不安の大波小波が寄せては返す日々です。

ですが、ここでも「息子を信じる」よりも、学校に復学しようがしまいが、「息子は大丈夫だと信じた自分を信じる」というところに立とうかなと思います。

「彼(イエス)に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10章11節)

自分も含め、人は(意図的にではなくても)いつでも裏切る可能性を持っています。だから、信仰者として最終的に立つところはここになります。

「信じる」から「知る」へ

信じよう、信じようって意識している間は、信じていません。信じてないから信じようってなっているんですよね…。

信じていいのかな?
本当に信じて大丈夫なのかな?
信じた私がバカだったなんてことにならないかな?と迷っている状態。

先ほどの聖書のことばに立ちながらも、迷いや不安はきます。だからでしょうか。最近頭の中でぐるぐる回っている曲が槇原敬之の『どんなときも。』

どんなときも どんなときも 
迷い探し続ける日々が 
答えになること 
僕は知ってるから

昔はさら~っと聞いて口ずさんでいましたが、「迷い探し続ける日々が答えになる」ことを知っていたらどんなに強いだろう…。

まてよ?そのこと知ってる時点でアンタ迷い探すことから抜け出せてるんちゃうの?ってつっこみたくなりますが、信じてるのと知ってるのとでは安心度合いが全然が違いますよね。

「信じる」を積み重ねていけば、いずれ「知る」状態になっていくと信じつつ(笑)、あせらず一歩ずつ進んでいけたらいいなと思います。

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。