シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【存在意義を求める】受容された感がないから

存在意義を問う人・問わない人

人生とは?
生きるとは?
死とは?
自分とは?
存在目的は?
存在意義は?


私はある時期からそういうことを考えるようになりました。特に高校生の頃は、アトピーが顔面・全身に広がり、ひどい状態だったので、何のために生まれてきたのか、何のために生きていくのかと自問し続けました。自殺を考えることもありましたが、きっと痛いし怖い。親の前で泣いたら親を責めるようで、それもできない…。生きるも苦、死ぬも苦。大きな不安と闇を抱えて一人で静かに泣いていました。

多感な思春期をそのように過ごしていたので、軽いノリでつき合うような友人関係にはあまり興味がありませんでした。広く浅くではなく、友だちが少なくても深い話ができる関係を好みました。

それからしばらくして知り合った友人のひとりに、最初に書いたような話をしていると、「難しいこと考えてるんだね~。そんなこと考えたこともないわ~。」と言われました。

彼女にしてみれば重いテーマを追う私に驚いたようですが、私にしてみれば、「そんなこと考えないでよく生きてられるね」っていう大きな衝撃!

そういう彼女は、人を悪く言うことがほとんどなく、友人も多くて大切にする。私がある人の陰口を言ってたら「どうして本人の前では笑ってるのに、いなくなるとそんなこと言うの?」とちゃんと境界線をひいて諭(さと)せる人。

本物の自信は内側で確立される

私と彼女がなぜ真逆だったのか?生まれもった気質以上に、やっぱり家庭環境・親子関係だと思います。彼女と彼女の両親はまるで友だちのような関係。なんでも言いたいことを話して笑って尊重し合っている。怒鳴り声が響くような気配はゼロ。存在そのものを十分に受け入れられて育ったので、当然、存在意義や存在目的を考えなくても生きていられるし、小さなことにも笑えるし、自分以外の人もたくさん受け入れられる。充実感と安心感に満たされて成長してきたんですね。

一方、私の家庭は、親の言うことは絶対でした。その時の親の機嫌によって許されることと許されないことの基準が違う。いつなんどき怒られるかわからない。怒られるとなれば、怒りの鉄拳のようにふるまう父親。生みの母親は私が赤ちゃんの頃に家を出たので、私の存在を丸ごと受容されるという経験は乏しかったのです。

以前の私は、自分の存在そのものに自信がなかったので、周囲の反応に一喜一憂していました。特に言葉で褒められることが大好きで、今思えば、他人からの称賛を通して、自分はいてもいいんだ、いる価値があるんだと承認欲求を満たしたかったんだと思います。

よく、「子どもを褒めて自信をつけさせてあげましょう」と耳にしますが、自己受容やカウンセリングの本には「本当の自信は内側で確立される」と書いてあります。言うことやることを1から10まで褒めなくても、自尊心を傷つけないように接すれば自然に育っていくものなのかもしれないですね。

私はそのように育ててもらえなかったし、自分の子どもに対しても自尊心を守るという点においては意識が低すぎました。だから今、時間をかけてやり直しているところです。

意味がなくても良しとできる

聖書には、神さまが私たち一人ひとりを愛しているという言葉がたくさんありますが、今一つそれを個人的に受け入れることができずにいたのは、成育歴が大きく影響していたと思います。

信仰によってその愛を受け取ることもありましたが、自己受容を実践していく中で、信仰がある・ないを意識しなくても、素直に「そうなんだ~」「愛されているんだ~」と心にストンと落ちるようになってきました。

また、これは私の個人的な感覚ですが、自分の存在に意義や目的を常に問う人は、何事にも意味を見出そうとする傾向があるのではないかなと思います。「それをすることになんの意味があるの?」と、判断基準がいつもそこにあるというか…。

意味(応報・成果)があるからできる。意味がないならやってもムダ。

きっとそういう人は小さなことで笑ったり、小さな幸せを見つけるのは苦手なんだと思います。「小さなこと」は、人生における直接的な大きな意味がほとんどないからです。自分を振り返って思うことなんですけどね~。

自己受容するにつれて、自分の存在意義(自分自身について)を考えることが少なくなってきました。同時に、他の人のことも気にならなくなり、小さなことにもいちいち意味を考えなくなりました。ムダと思えるようなことや、回り道をしているように思えることも受け入れられるようになってきました。許容範囲が広がってきたってことですね。

余談ですが、その友人のお子さんも中学生の頃不登校になりかけた頃がありました。彼女にとっては学校に行かないなんてあり得ない。そんな選択肢はない。だから必死になって子どもを連れて行ったようです。現在は通学しているようですが、私の息子が不登校の状態になって数か月になるという話をしたときは、その状況を受け入れている私のことをすごいと言っていました。

私も当初はかなり不安でしたが、ひとつずつプロセスを踏んできた今となっては、なにもすごいとは思いません。もしすごいと思ってくれるとしたら、息子の不登校をきっかけに、自己受容の学びを始めたり、いろんな価値観やいろんな生き方があることを知ったおかげかなと思います。(^-^*)♪

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