シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【ストレスへの耐性】がまんは関係ない

がまんによる成功体験

「がまん」という言葉は、あなたにとって肯定的ですか?否定的ですか?私はどちらかというと、肯定的なイメージが大きかったように思います。それはきっとがまんすることによる成功体験があったからかもしれません。

私の場合、小さいころからずっとピアノを習わされて、途中でやめたいといってもやめさせてもらえず、高校生になった頃にようやくいろんな曲を弾けるようになってきたので自主的に教室へ通うようになりました。

その後、ピアノを弾くことでたくさんの人が喜んでくれたので、あの時がまんして習い続けてよかったなという「成功体験」ができました。

他にもあります。中学を卒業したあと、高校一年生の春休み中に突然顔面がアトピーでひどくなりました。そのうち全身に広がりました。

「学校を休みたい」と親に言ってもどうせ無理だろうなという思いと(後になって、親は私が言い出すのを待っていたとのことでした)、もし学校を休んだら「きっともう外出が怖くなってずっと登校できなくなる。高卒資格もなくてどうやって生きていけるのか!?高校くらいは出とかなきゃ。」

そんな思いで通い続けるなか、高校3年生の夏に症状は少し治まりました。そして、がまんして学校へ行ってよかったなと、また「成功体験」ができたのです。 

がまんして怒りがたまる

でも、これらはDoing(行為や成果)の成功。Being(その人のありよう)はどうでしょうか?

「少しはがまんさせないと、自己中心的な大人になる」そんなふうに思いながら子育てしてきたので、子どもに接するときも、そういう思いが言葉のはしばしに表れていたと思います。

私の父は厳しくて、自分のルール(規範)にそぐわないとすぐ怒り、怒鳴り、手も足も出る人でした。そういう親に育てられると反抗できない分、怒りがたまります。

がまんしてきたのに、なお家族や友人から「わがまま、気まま、自己中」と言われてきました。(さきほどの子育ての信条とは矛盾してますね!!)

そして、成長するにつれ、私は人をさばくようになり、協調性を持つことも好きではなくなりました。私は私、人は人と言いながら、他の人を尊重できず、相手を見下げるか、うらやましがるかの両極端。

がまんし続けると、どこかで人間関係に難しさを覚えるようになると思いませんか?人に合わせられない(他の人をはねつける)。人に迎合してしまう。どちらも健全な人間関係を持てていないですよね。

心の満たしが耐性を強める

内面的ながまんは本当にストレスへの耐性を強めるでしょうか?私は親の前では自分の気持ちを抑えてきた分、親以外からのストレスがかかったときはすぐ腹がたったり落ち込んだりしていました。

周りを見まわしてみると、ストレスへの耐性がある人は、がまんを積み重ねた人ではなく、自己肯定感・自己受容感がある人のほうが多い気がします。

たとえば、

・自分と意見が違っても誠意をもって相手に耳を傾けられる人
・自分が不利益になりそうでも慌てず対処できる人
・批判されたとしても、怒りや悲しみに圧倒されない人、など。

こういう人たちは、健全な自尊心を持っているんですよね。ということは、「わたしの存在は条件なしに愛されているんだ」という体験をたくさんしたほうがいいってことですよね。怒りがたまるようながまんの積み重ねは、柔軟性がなくなりいつかどこかで心が折れます。

息子が不登校になった本当の理由は、私ががまんしてためこんできた怒りを、不健全な形で息子にはき出し続けてしまったことで、反抗できない息子は私と同じように怒りをためてしまい、学校でのいろんな場面を乗り越えられないほどに心が疲れてしまったんだろうと思っています。

だからきっと、「心が満たされている」とは、外的要因(誰が何を言ったとか何をしたとか)によって、自分の存在が否定されたり肯定されたり感じない状態なのだと思います。(誰でも肯定されたら嬉しいですが、他人からの称賛によって自分の存在が承認されると感じたり、承認を求めたりするのとはちょっと違いますね)

最後に、聖書の第1コリント13章7節には、愛は「すべてをがまんし」「すべてを耐え忍びます」とあります。これはキリストの性質をあらわしており、同時に、キリストがそのように私たちを愛しているということですが、その愛に満たされている人は、すべてをがまんし、耐え忍ぶ力が自然に宿っているのかもしれませんね。

(第1コリント13章については 【自己受容】私が自分を愛する根拠 も ご一読くださいね)