シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

私は最初から完成品

「欠点だらけ」という自己評価

「私は欠けだらけで不完全」
だからその欠けを補い、修復し、より良いものになりたい!
ならなければ!

私は長い間、自分に対してこのように思ってきました。まるで、きれいに焼きあがっているはずの陶器が、窯から出してみたら、欠けていたりヒビが入っていたりしているような感じ。

そういう自分の姿にダメ出ししてきました、へこみすぎた部分は少しふくらませ、ふくらみすぎたところは少しへこませて。長すぎる部分は短く、短すぎる部分は長く。あの人のように…。この人のように…。

「最初から完成品」という神評価

ある本に「自分に対する前提を変えてみよう」という提案が書いてあるのを読んだことがあります。たとえば、自分はおこりんぼだと思っていたとしたら「私はそんなにおこりんぼじゃない(かも)」とか、間食をやめたいのにやめれないなら「おやつ食べなくても私は大丈夫(かも)」とか。それを読んだときは、自分の弱さやもろさをまざまざと見せつけられていた頃なので、前提を変えて本当に自分の考えやふるまいが変化していくのだろうかという疑問があり、たいして実践もしませんでした。

ですが、ある日、クリスチャンの知人がこのように話してくれました。
「神様は完全なお方だから失敗作をつくることはない。だから、自分が不完全であるかのように思う必要はないんだよ。神さまは "不完全なあなた" を愛しているのでもないし、"完全になろうとしているあなた" を愛しているのでもない。今のあなたを、すでに完全なものとしていつくしんで、喜んで、愛しているんだよ。」

それを聞いて思いました。
私は本当に欠けていたのだろうか?
本当にヒビが入っていたのだろうか?
いや、欠けていたと思っていたところは、初めからへこむようにデザインされていただけ。
ヒビだと思っていたところは、初めから細い溝が刻み込まれた美しいラインが描かれていただけ。
狭すぎると思っていた部分は、初めから細くデザインされていただけ。

私は自己評価を「欠けだらけ」ではなく、「最初から完成している」に変えました。自己評価ではなく神評価ですね(笑)何もつけたさなくても、どこも削らなくてもいい、初めから完璧な完成品!

そのように思い始めたら(前提を変えたら)、より良くなろうという「がんばり」を手放していけるようになってきました。他の人と比べることもなくなってきました。自分についてあれこれ思わなくなってきました。自己受容が進んでいくと、自分に焦点をあてることがなくなってくるようです。(関連記事 【大海原の一滴】自己受容を越えた境地 も ご一読くださいね)

BeingとDoingを区別する

「ありのままではダメだ。神さまは成長を願っておられる。」そのように考える人もたくさんいますが、それはDoing(行為)のことではないでしょうか?ここで書いているのはBeing(存在そのもの)のこと。そういう人とはここを確認しないと話がずれていきますね(笑)

神さまは成長を願っておられるでしょうが、もはや、それは神さまの領域。

『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。』(1コリント3章6~7節)

Beingでいえば私たちは完全な種。適切な環境に植えられ、適切に水と光が注がれたら勝手に成長していきますよね。

「ありのままでいい」「がんばりを手放す」とはそういうことなのかなと思います。種のままでいたいならそれでもいい(笑)。ちょうどよい時に神さまがそっと、やわらかくて温かい土の中に寝かせてくださるでしょう。すると種は自然に気持ちよく目覚めて芽を出していく…。

大切なのは、その種はすでに完全であるということ。花を咲かせた姿だけが完全なのではありません。種のときも、新芽のときも、枝葉だけのときも、その途中すべてが完全な姿だということ。枯れた姿さえ完全なのです。そこにはもう一度芽吹くいのちが宿っているからです。

自分に対してそのように思えたら、子どものことも、他の人のことも、これまでと少し違う見方ができそうですね。(^-^)/

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。