シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

【隠れた思い】やめたクセ

つい見てしまう

自分のクセってなかなか気づきにくいですよね。クセとは無意識につちかわれてきたものなので、気づいたとしてもすぐには直らないですよね。

それでも最近、あるクセをやめました。正確にはやめようとしている最中です。

ある日、ある時、いつものスーパーで買い物をしていた時、気づいてしまいました。

「いつも人の顔を見てるかも⁉」

顔色ではありません。
顔そのものです。

いつも人の顔を見て、行き交う人が知っている人なのか、そうでないのかをチェックしていたり、雰囲気いい人だなぁ~とか、変な人だなぁ~と思っては、どうなったらそのようないでたちになるのかと想像したり。無意識に、です。

知っている人なら声をかけようか、かけまいかを判断する。
思わず声をかけることもありますが、ためらって声をかけなければ、自分の中で気まずさが残る…。

私は裸眼でも遠くから人の顔がそれなりに見えます。なんで目がいいんだとうらむこともあります。視力が悪ければ、そもそも相手に気づかないで過ごせますからね。

ためらって気まずさが残るのとかも面倒くさいのですが、それ以前に、相手が知っている人だと気づいたら会釈するのが面倒になったんですよね。

気づいて会釈のひとつもしないのは相手にも自分にもいい感じは残らないので、それなら最初から気づかないようにしよう、そのためには人の顔を見ないようにしよう、ということです。目がいいですからね…。

隠れた思い

なぜ私は知っている人に会ったら会釈したり、挨拶したりしなきゃいけないと思っているんだろうと思いめぐらしていました。きっと、相手が喜ぶから…というところにたどりつきました。自分もそうされたら気持ちがいいですしね。

でも、それって罠なんですよね~。

自分がされたら気持ちがいいということは、「相手にも同じようにしてほしい」という願いや、それが行きすぎて、「するのが常識でしょ?」「当然でしょ?」という「すべき」を相手にも押しつけてしまうのです。私はそう思ってしまう傾向が強いのです。

最初の動機は「相手が喜ぶから」。それが自分の喜びにもなる。
単純にそれだけ、そこどまり、ならいいんですけどね~。

隠れた思いに気づくことは本当に大切です・・・。

自分から会釈・挨拶をしなくても気にしない人っていますよね。
愛想がないといえばそれまでですが、こういう人は沈黙を恐れていないし、ある種の独特な世界観を持っているブレない人なのかもしれません。

保っておきたい関係のために

いつのまにか身につけてしまった「~べき」「~べきでない」という枠(ルール)を少しずつ手放していっています。他者に課していたようなルールも、実は自分に課していたルールであることがほとんどです。

私の心の変化の順序としては、これらのルールを外すために人の顔を見ないようにしようとしたのではなく、これらのルールが外されてきたから、こっちから気づかなくてもいいや~と思えるようになってきました。

あくまでも、スーパーとか子どもの幼稚園・学校とかで「いつもこっちから挨拶しなくてもいいや~」と思っているだけで、あちら側からされたら応えるし、ご近所さんには積極的に笑顔で接しています。

人との関係を捨てたわけではなく、
「気づいたら会釈をするのが当然」
挨拶すべき」
「ちょっと立ち止まって話でもしなきゃ」
という(ルール)を捨てたのです。

愛想笑いは、保っておきたい関係のためにとっておきます。