シャロムの部屋

もうだいじょうぶ!「自分や子どもを責めてきた」ママたちへ。自己受容と聖書から子育てのヒントを得るコラム

喜ばせなくていい、喜んでいればいい

励ましよりも共感

何か悲しいことがあったとき、つらいことがあったとき、いちばん心がなぐさめられるのはどんなときですか?

私の場合、誰かに気持ちを分かってもらえるときが何よりものなぐさめになります。励ましの言葉そのものよりも、共感してもらえたことが励ましになります。

嬉しいときも同様。その嬉しさを共に感じてくれたら、さらに嬉しくなります。

喜ばせなくていい

聖書には「喜ぶものと一緒に喜び、泣くものと一緒に泣きなさい。」(ローマ12章15節)とあります。これをクリスチャンとして生きるための「基準」と捉えると難しくなりますが、そのように考える前に、まず「神さまが私と一緒に喜んでくださる。一緒に泣いてくださる。」と読むと、神さまの愛があふれ流れてきます。

多くのクリスチャンは神さまが喜ばれることをしたい、または、神さまを喜ばせたい、と願い、私もそう思ってきました。でも、そういう考え方ってなんだか窮屈というか、神さまを小さくとらえているような気がしているのでは?と思うようになってきました。

なぜなら、私たちが「神さまを喜ばせるようなこと」をするから、神さまが喜ぶのではなく、私たちが「喜んでいる」とき、神さまは喜んでおられるということがわかってきたからです。

私たちの行為(Doing)以前に、神さまは「喜びをもってあなたのこと(Being)を楽しみ、その愛によって安らぎを与える」お方です。(ゼパニヤ3章17節)

喜んでいればいい

子どもを育てて初めて知ったこと。それは、子どもが楽しそうに笑っているとき、私も嬉しいと思っていること。何をやっているかという内容は関係なくて、子どもが喜んでいる状態そのものが嬉しいという感覚です。

子どもには私の言うことを聞いてほしいし、やってほしいし、それをしてくれたら私は喜びます、はい(笑)。でも「私を喜ばせるために」私の言うことを聞くなら、なんだかちょっと寂しい気もします。勝手なヤツですが、でもこの微妙な違い、わかりますよね??

私の顔色を伺ったり、機嫌を取ろうとしたりするのではなく、主体性をもって喜ばせようとしてくれるなら、それはサプライズな愛の贈りものになります。

これは誰に対しても同じだと思います。相手を喜ばせたいと思うのは優しい心から出るものであって、自分の気持ちを無視してまでやるならそれは偽善につながります。(とりあえずやることをやれば、ひとまずまるく収まるときはありますが…)

喜んでいる人を見れば自然に笑みがこぼれるときってありますよね。なんだかわからないけど、笑っている人を見てつい笑ってしまう。

「喜ばせなくてもいい。喜んでいればいいんだ~」そこに落ち着いてきました。そして、喜んでいる子どもたちと一緒に笑えたら、そこに「今日のしあわせ」があるのかもしれませんね。 (*^-^*)

(聖書は基準ではなく愛のメッセージ→ 【自己受容】私が自分を愛する根拠 も ご一読くださいね)

(注)ここに書いている内容は私の個人的な考えです。個々の信仰の解釈と合致するとは限らないことをご了承くださいませ。